主来たりたもう イザヤ書 7:10-14

クリスマスとは神の御子イエスキリストの誕生を祝うときですが、 その出来事が書かれているマタイ福音書23節に 「インマヌエル」(神はわれわれと共におられる) と言う言葉が出てきます。 7:14「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」 とかかれるくだりです。 この幼子の誕生を通して神が共にいるという、心励まされ、 心強められる現実が明確になるというのです。

この言葉の意味を知るには、背景を理解する必要があります。 時は紀元前730年。イスラエルは南北に国家分裂していました。 国家の崩壊には道徳的、倫理的崩壊というものが先立つものです。 当時、分裂した北イスラエルでは、 伝統的なイスラエルの宗教から離れた異教が盛んで、 子どもを生きたまま異教の神に捧げるような非人道的な宗教が、 イスラエルの預言者の反対をおして行われていました。 南王国であるユダがかろうじてイスラエルの宗教の正当性を保っていたのです。

その時代、強力な武力を誇っていたのはアッシリヤでした。 西では別格のエジプトとオリエントでは唯一の超大国アッシリヤが君臨していました。 アッシリヤは支配地での、残虐な振舞いも、恐怖そのものでした。 周辺の国々はこのアッシリヤに協力して貢物を差し出すのか、 あるいは反(アンチアッシリヤ同盟)つまり小国同士が結束して、 アッシリヤに恐る恐る反抗するのかどちらかを選択するしかないのです。 そこで北王国イスラエルと小国連合が同盟軍を結成し、アッシリヤに立ち向かおうとし、 それに南王国ユダも参加するように促されたのです。 しかし、時のユダ王アハズは、その呼びかけをいちおう拒絶しました。 それはユダの軍備に自信があったからではありません。 神を信じる信仰に立って毅然とした態度を表した、というのでもありませんでした。 つまり王は決めかねていた。 苦悩し、迷いに迷っていた。 超大国を前に普天間をどうするのか、辺野古にするのかしないのか、決められない・・・。 どこかに通じます。 そのときのアハズの様子が書かれています。 7:2「王の心も、民の心も、森の木々が風に揺れ動くように、動揺した。」 アハズ王は、どこに自分自身の、そして自分の国の生存や、根拠を置けばよいのか、 その心は風に動かされる木のように動揺しました。

自分が生きるべき根拠や土台を、 どこに据えたらよいのか分からないという状況は、 今の日本人が抱えている一つのこころの姿です。 占いとか、ファッションとか、流行を追う。 他人が据えた生き方を後追いしていく、自分を失った姿です。 自分はどう生きていくのか、その前に自分をどう確立するのか、 それができなくて自分探しをし続ける人、 居場所もなくてさ迷う人はご覧の通り多いのです。

アハズ王も揺れ動く心の中で、決めなければなりませんでした。 王なのですから。 国家の舵取りが彼の手の中にゆだねられており、 国民全体の命の選択さえもかかっているのです。

繰り返します。 ユダ王国の王アハズは次の3つのうちから一つを選ばねばなりません

@ アラム(シリヤ)と北イスラエルと小国連合を結んでアッシリアと対抗する。

A アッシリヤに貢物を送ってアッシリアに隷属する。その代わり最低の安全を保 つ。

B 危険を恐れず、どの国とも対等に向かい合う。

そこで彼はいよいよ決断しました。 彼の出した結論は、なんと、 脅威の的となっているアッシリヤと手を組もうと言うことだったのです。 後世のわれわれの眼から見ることは簡単ですが、それは最悪の決断でした。
<列王記下16:7  アハズはアッシリヤの王ティグレト・ピレセルに使者を遣わして言わせた。 「わたしはなたの僕、あなたの子です。 どうか上ってきてわたしに立ち向かうアラムの王と、 イスラエル王の手から私を救い出してください。 アハズは主の神殿と王宮の宝物庫にある銀と金を取り出し、 アッシリヤの王に贈り物として送った。>
王宮の金銀では足りず、神殿からも金銀を持ち出して、アッシリヤに貢いだのです。 とはいえこれは王の恐怖心から出た独断で誰も賛成はしませんでした。 この関係を続ければ、アッシリヤは次々と要求をエスカレートして、 ついにはユダを食い尽くすだけなのです。 王の相談役だった預言者イザヤは 「シリヤや北イスラエル同盟軍を恐れることはない。 彼らは「燃え残ってくすぶる切り株」に過ぎない。 苦し紛れにアッシリヤに絶対に頼るな。」 と真剣に説いたのです。 今こそ現実問題の解決を図るのに、現実を超えたところ <黄泉のように深いところ、天のように高いところ> に求めよ。 と語るのです。現実だけを見ていると、現実に捕らわれ、 状況に押し流されると言うことがよくあります。 ある人がどうにも解決不可能の現実にたいして、 現実を超えた視点に立てと王に進言したのです。。

確かにわたしたちは現実問題の渦中・只中にあります。 問題はわたしの身近ですので、解決も身近なところにあるように思います。 けれど、一向に解決が見えないのです。 解決はこの世的な工夫、技術、お金、力でとわたしたちは努力します。 しかし物事はこころのあり方とか、あるいは信仰という生き方で、 劇的に変化していくことは確かにあります。

預言者イザヤは小手先の、 金銀を貢ぐことでアッシリヤの後ろ盾を得ようとする王の浅はかな考えをいさめて、 天を見よ、神を見よと勧めるのです。 そして自ら神によって示されたヴィジョンを語ります。 それは一人の女性が、男の子を産む。その名はインマヌエルだと語ります。 それを見たら、あなたは、神が自分たちと共に居るということを確信していいのだといいます。 <インマヌエル> とはマタイ福音書にあるように「神がわたしたちと共におられる」という意味です。

じつはアッシリア帝国は強大この上もない軍事力と他の国にはない鉄の文化をもっていました。 しかしこの後十数年で帝国はガラガラと崩壊するのです。

神が共にいると言うことは、特別なことです。 神が共にいたら、神の出来事、救いの出来事が起こるでしょう。

人間は慰めを必要とする存在です。 幼子から高齢者に至るまですべて同じです。 貧しくても、金持ちでも、同様に慰めを求めています。 健康であっても、ましてや病気の最中にいる人は慰めがほしい。 励ましてくれる人がいることは幸いです。 困難を理解してくれる人を持っている人は幸いです。 主なる神はいつもわたしたちと共におられるのです。

アメリカ人やイタリア人もそうですが、 たまに会うと親しげにハッグしてくれる人がいます。 あれは彼らの文化ですから、わたしなどはとても慣れないのです。 ですがある葬儀のとき、 突然夫をなくした女性に一人のアメリカ人の友人がしっかりとそってあげて、 肩に手を差しのべて、悲しみと嘆きの中にある寄る辺ないその方にとって、 大柄のアメリカ人のハッグは見るからに励ましになったように私には感じられました。

共にいるということは、確かな愛の形です。 誰かが共にいることによって、それだけでわたしたちは安心し、慰められ、平安を取り戻します。 けれど、これとは逆方向の力が、わたしたちを動かすことがあります。 他者を自分のために利用する。他者を自分のための手段に使って、 自分自身を大きくしようとする誘惑がおこり、人との関係が破れていく。 聖書で罪といわれている現実です。 罪は人との関係を分断していきます。 結局人は孤立し、孤独に落ち込むことになります。

けれど孤独と苦悩の中に人間が落ち込むとき、神も共に悩まれるのです。 神は人間の不幸や苦悩を放置できないのです。 神は人間が幸せになることを望まれるのです。 不幸な人生を送るために神はわたしたちを造られたのではないのです。

マタイ福音書1:21に次のように記されています。

「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。 この子は自分の民を罪から救うからである。」 「イエス」と名づけられたその人は<インマヌエル>  −神はわたしたち人間と共にいて下さる−  神の約束を実現する方です。  このイエスを見上げること。神を信ずること。  そして神はどんなときにもわたしたちと共にいることを信じなさい、と呼びかけます。

このことは地球のどこにいようと、どの時代に生きようと、 わたしたちがどんな状況にあろうと、 神が作り出してくださった神の出来事、神の事実なのです。 これを受け入れるとき、孤独は終わるのです。 絶望にピリオドが打たれるのです。

その後アハズ王の時代にアッシリヤの攻撃はありませんでした。 けれどその後王になったヒゼキヤの時代にアッシリヤ軍18万5千がエルサレムを包囲します。 しかし聖書によればある朝、アッシリヤ軍全員が死体に変わっていた。 つまりエルサレム攻撃は失敗に終わり、 エルサレムを落とせなかったアッシリヤ王は失脚し、 やがてアッシリヤ自身がバビロニヤに滅ぼされるのです。

預言者イザヤの言葉 「アッシリヤでもなく、小国多国籍軍でもなく、共にいてくださる神を信じなさい」 という言葉は、この世的、軍事的には、何の根拠もありません。 でも正しかった。 人生迷うとき、足がふらつくとき、神は神の座を立って、わたしたちを助けてくださるのです。

人生において確かに無意味なことがあります。 人を恨んで、自分を被害者にすること。 誰もわたしを愛していないと思い込むことは、無意味です。 後で、聖フランシスの祈りを共に祈ります。

希望を捨てないこと、愛すること、共に生きようとすること、平和を渇望すること。

神が共にいます。 神が大きな目で見て、わたしたちをしっかりとハグして、 抱きとめて、その慰めを他人と分かち合えと、わたしたちに望むのです。

(2021年11月28日 礼拝メッセージ)


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