創造の御手につくられ ヨハネの黙示録 7:9-17

さて主なる神は2章18節で言われます。 「人が一人でいるのはよくない。彼にあう助けるものを造ろう。」 <人が一人でいるのはよくない> とはどういう意味でしょう。 神は一人で存在したもう方です。人は一人ではどうにもならないものです。 ひとという漢字は一本の長い棒ともう一本の短い棒が支え合って出来ている。 人間とは支え合う存在という事を示している…といわれますが、 語源辞典を見ると全く違ったことが書いてあってあれは誰かの作り話のようです。 でもよくできた話です。

端的に人は一人では生きられない存在だと理解します。 人はともに生きるように造られています。 しかし彼にあう助け手−ここではエヴァがその人なのです。 だから女性は男性の助け手、補助者だと考えられてきました。 創造の秩序なのだとして男がメインで、 女性がサブと固定的に考えられてきたこともあります。 聖書学院のときにわたしが伝道実習に行った先の教会の牧師さんは 聖書研究会で黒板をもってきて男が上で女が下と書いて、 これが創造の秩序と教えていました。 個人的には尊敬した先生でしたが、聖書が差別の温床として使われたのです。 本当にそうした意味合いでここに書かれたのでしょうか。 女性は男性に対等に相対していることで、助け手なのです。 対等な相手があって、ワンペアーが完成します。 二人でひとつが完成します。 男と女のかかわりはそういうものです。 人間は他者とともにいて人間であるのです。 どちらが主で、どちらが従かという問題ではないのです。

24節には「二人は一体となる」とあります。 伝統的にはこの言葉は結婚を指すと理解されてきましたが むしろ人格的な共同体の中でこそ意味を持つ言葉ではないでしょうか。 確かに結婚に神の祝福はあると考えます。 けれど変転極まりない人間社会で、結婚を望みつつかなえられない場合もあります。 長寿時代が信仰する中で、連れ合いを失う人々もより多くなります。 社会は男性と女性がおりますが、最近ではLGBTを生きる方々もおられます。 もともと社会はすべての人がお互いを同等に慈しんで、 誰かの助け手として生きてゆくように神が造られた。

共同体こそ、聖書が目指すものです。 24節「こういうわけで男は父母をはなれて、女と結ばれ二人は一体になる。」 ただ言われるのは一組の男女の問題ではなく、 共同体全体がひとつのからだというのです。 聖書は教会も含め、あらゆる人間関係の基本を男と女の関係、夫と妻の関係に見立てます。 ただしそこに見つめられているのは共同体をなのです。 神はあらゆる動物を連れてきて、人がどういうつながりをもつかをごらんになります。 どんなに犬や猫と親しいかかわりができても、 それはふさわしい助け手ではありませんでした。 そこでふさわしい助け手、合わせて一対となるべきものは見つかりませんでした。 そこで主なる神は男のあばら骨から女を作ったのというのです。 人は言います。「ついにこれこそわたしの骨の骨。わたしの肉の肉。」 ここでの男と女は、分身です。 もう一人としての相手。他人とは言えない相手です。

のちに、主イエスが 「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。」 といった言葉が響いてきます。 他者である存在はわたしの分身でなければならないものです。 他者とは、わたしのために存在してくれている存在であり、 わたしが彼、彼女のために存在しているコトを覚えるべきなのです。 しかし現実のわれわれは、やがて直ちにアダムがそうなったように、 わたしはわたし自身のためにのみ存在するのであり、 他者は自分のためにのみ存在しているかのような受け止め方に陥るのです。 「これこそわたしの骨の骨。わたしの肉の肉。」 こうしたかかわりを持ち続けたいのです。

こうして人は神に造られ、 また自分の分身のような深い関わりを許された熱い共同体に導かれたものとして造られたのです。 それは肉体に限りません。 与えられた人生こそ、神が造ってくださり、神が導いてくださった舞台です。 しかし振り返ればこの人生はかなり苦さも伴う神の創造であるかもしれない。 苦味のない人生などないのです。 しかしじつはこの創世記が作られた紀元前6世紀のユダヤ人たちこそ 歴史始まって以来の苦々しい経験の中にいたのです。 つまり国家の滅亡、民族の分断と消滅の危機にあったのです。 つまりバビロニヤ捕囚です。残された人はエリート、技術者、 バビロニヤ人にとって役立つ人々のみでした。 多くの人々は廃墟のユダヤに残され、異民族に従うしか方途がなかったのです。 捕囚の地、バビロニヤでこの天地創造の物語が完成したのです。 捕囚の地、捕囚の身であっても、神に造られた美しい人生はありうると言うことです。 神の作ったものは何もかもよい。 神はそれを見て良しとされたと言う言葉が創世記の 創造の記述に繰り返し繰り返し語られるではありませんか。 希望をそこに見たのです。

人生の中で、なにか失敗の経験、恥をかくこと、 苦々しい出来事、病気、しょうがいを持つこと。 人には承服しがたいことの二つや三つはたぶんあると思います。 他人と較べて、自分の努力ではどうすることも出来ない不利を抱えている人々も多いことです。 自分に非があると認める部分があっても 圧倒的に相手方の非と思える出来事があるかもしれない。 しかしユダヤ人は捕囚の地で創造の神に出合いました。 わたしたちも与えられた苦々しさを苦々しく見つめているだけでは何の進展もないでしょう。 でも、それは創造の場所だと神は言います。 神が与えたわたしたちの人生という舞台で、神の創造のみわざが起こるのです。 この前の旅行で、モーツアルトの故郷に近いザンクトボルフガングで 一人のドイツ人のおじさんが親しく話してこられたのです。 彼は北ドイツのビーレフェルトから来た、ツアーの一人でした。 いわゆるベーテルとして知られている 世界最大とも言われる巨大な障がい者コロニーから来た患者さんの懇親会の旅行ツアーでした。 ベーテルは神学大学、障碍者施設、知的障害など150年の伝統を持つ世界的に有名な施設です。

じつはこの巨大なコロニーは、 1867年ボーデルシュビンクという一人の牧師が5人の子供を病気で次々と亡くし、 亡くなった子ども達と交代するように、5人のてんかん患者を引き受けたことから、 世界最大の障碍者コロニーに発展したのです。 ナチ支配の時代には、障碍者をガス室で殺害するとするヒトラーの命令が出ました。 大半の医師会や介護施設が従ってゆく中にボーデルシュビンクさんの施設は 政府の通達を拒絶をつらぬいたのでした。 1牧師であるボーデルシュビンク家の悲劇が ドイツ全体の障碍者福祉を進める偉大な出来事につながっていったのです。

(2021年10月24日 礼拝メッセージ)


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