放浪ではなく勝利の凱旋 申命記34:1-10

イスラエルにもし千円札があれば モーセはその第一の候補者に推薦されたでしょう。 モーセはイスラエルにとって当時、寄留の地であったエジプトの地に生まれました。 生まれてすぐにナイル川に流されエジプトの王女に拾われ、 王家の一員として育てられました。 ユダヤ人という強烈な民族意識を持ち しかもエジプトの王家の一人であったとしてエジプト政治の中枢に身を置いたモーセは やがてヘブライ人による出エジプトの40年の放浪の旅路を導き出すのに これ以上の適切な人物はいなかったと言える人物でした。

そしてモーセは40年という艱難辛苦にみちた 長い長い年月をかけ目的地であった約束の地、 カナンの入り口までの手前まで人々を連れ出したのです。 約束の地の入り口の手前にある山そこで生涯を終えた。 イスラエル民族を最終的に約束の地に導いたのは モーセにとって従者であったヌンの子ヨシュアだった。 イスラエル民族にとって目的地であり約束の地であったカナンの地に モーセが入れなかった ― 言い方をかえると約束の地に入ることを 神に拒絶されたという事は彼にとって痛恨の出来事でした。 実は砂漠の旅路の二つの出来事が関わっています

1つは出エジプト17章の民の水に関する不満です。出エジプト17:1-7(旧122p)

ここでの罪は民が 「果たして主はわれわれの間におられるかどうか」といって主を試した。 主の存在を疑った、民の罪。
モーセにも言い分があったはずです。 出来事の発端は民の苦情から始まっています。出エジプト17章のレフィデムでは
3節 民「何故我々をエジプトから導き出して子どもや家畜まで渇きで殺そうとするのか。」
4節 モーセ「彼らは今にも石でわたしを、撃ち殺さんばかりです。」

2つ目は民数記20:1-18(旧247p)

もともと神はモーセに約束していました。 「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると 手をあげて誓ったその地にあなた方を入らせそれを所有として与えるであろう。 わたしは主である」 にも拘らず民数記20 この時モーセは岩に水を出すように命じなければならなかった。 ところがモーセは岩を思いっきりしかも2度打った。 モーセは多少感情的になって岩を2度打った。 でも神さまもこれをもって約束の地にモーセを入れないなどゆきすぎではないのでは・・・ このことがモーセが 「神の聖なることを示さなかった」8〜13...というほどのことにはおもえないのです。

じつはこの時今モーセは何歳でしたか? 120歳の超高齢なのです。 この年齢に至り、まさにその約束の地をピスガの頂から眺めながら、 ついに自分はその地を踏むことなしに死に近づいています。 誰しもがこの聖書の部分を読みながら、 神さまはフェアーじゃないという思いも心にふと感ずるのかもしれません。
34:7-9 もうすでに若くて聡明なヨシュアが出番を待っています。

34章4節において神はモーセに、 約束の地がすべて見渡されるピスガの山頂でこれをあなたの子孫に与えるのだと見せられます。 そして34:4で <あなたはしかしそこにわたってゆくことはできない> と念を押されます。

それでも、所々でたとえば3:25 「どうか私にも渡ってゆかせ、(ヨルダン川の)むこうの良い土地、 美しい山またレバノン山をみせてください。」と懇願しますが、 一見するとモーセの生涯は貧乏くじとみる人もいるかもしれない。 しかし考えてみてください。これからイスラエルを待っている所は、 すでにお住んでいる人がいる場所です。 そこは神がわれわれにくださった土地だから気持ちよくどいてください… というわけにはいかないのです。 彼は、理想主義の神さまと、 勝手気ままな要求をくりかえす民衆にはさまれて、うろうろし続けた人生にも見える。

モーセの死は人生の終わりは無念の死だったでしょうか。 その生涯の終わりに祝祷を残しています。

「イスラエルは安らかに住み ヤコブの泉のみが絶えない
穀物と新しい酒に富み 天が露を滴らす土地に。
イスラエルよ、あなたはいかに幸いなことか。
あなたのように主に救われた民があろうか。
主はあなたを助ける盾 剣が襲う時のあなたの力
敵はあなたに屈し あなたは彼らの背を踏みつける。
   申命記33章28、29

たしかにモーセは目に見える成果として使命を果たすことはできなかった。 でも人は誰もが、常に目に見える成果や業績を完全にあげねばならないものでしょうか。 一つのプロジェクトも、目に見えるわざ、目に見えないわざ小さなわざ、 の集積(寄せ集め)で初めて形としての姿が目に見えるモノです。 それに出エジプトという巨大なプロジェクトに モーセの果たした役割は誰より神がご存知です。 モーセがツィンの荒れ野で神の聖なることを表し損ねたと神からの声がありました。 それは胸を張れることではありませんが、 出エジプトの大きな働きの陰でつい感情を高ぶらせて杖をふるったできごとですが、神は最後に語ります。

民数記20:13
これがメリバの水であって、イスラエルの人々が主と争ったところであり、 主がご自分の聖なることを示されたところである。

(2021年09月26日 礼拝メッセージ)


戻る