神に倣うものとなりなさい エフェソの信徒への手紙 5:1-5

5:1には「あなた方は神に愛されている子どもですから、 神に倣うものになりなさい。」と呼びかけられます。

この <神に倣うものになりなさい> という言葉は聖書中でここだけに書かれていることです。 トマス・ア・ケンピスのようにキリストに倣えとか、パウロにおいては― 1コリント4:16節に 「わたしに倣うものになりなさい。」 とまで書いています。 でも、神に倣えとは一歩ランクが高い印象もあって、ほかの誰も言ってはいないのです。 でもマタイ5:48には 「だからあなた方の天の父が完全であられるように、 あなたがたも完全なものになりなさい。」 とてもできることではない。神さまの真似をしろと言っても無理です。 聖書の言葉は短くそのまま受け止めるしかしかしそれにしても聖書の言葉は剛速球ではありませんか。

あらためて5:1を見ると 「あなた方は神に愛されている子どもですから、神に倣うものになりなさい。」 と呼びかけられます。 すると子どもの信仰は単純・素朴そのものです。 神がそう言われれば、そのとおり受け止めます。 不必要な自己吟味などしないのです。だから強いのです。 わざわざ <あなた方は神に愛されている子供ですから> というからには、律法主義は忘れていい。 <ただ神に愛されているから> が動機になって歩む信仰生活であればいい。 問われるのは子供のような信仰なのです。

畏れ多いことですが私たちは 「神に愛されて神の子とされた・・・・」 と聖書は断定します。 そんな風には外見見えないし、 キリスト者といっても小さな歩みしかできていない、 と勝手に思い込んでいます。

愛によって歩むでも、神がともにいてくださるようになったのなら、 多少それに見合った <何か> はあるはずです。神に救われたのに何も変わらない、 何の感動もないということは、それこそ違う話でしょう。 神のものになったら、なったらしく生きる ということはあるはずです。 根本が違ってきても外見は元のままかもしれない。 一向に代わり映えがしないといわれるかもしれない。 でもなんとかして神に倣おうキリストに倣おうという思いが生まれれば、 そのことはいつも心の思いの中にあります。 それはわずかながらも顔つきに、表情に、立ち振る舞いに現われてきます。 心が変われば感謝や喜びが湧き出してきます。 心が変わればそれは心に閉じ込めておくことなどできません。 必ず言葉にも、行動にも表現されるのです。

その事は誰に対してでも言われることではありません。 「あなた方は神に愛されている子供ですから…」 と言われています。 神に愛されている人間には神に愛されているがゆえに、 生まれながらの人間では到底できないはずの、 神に倣うことができるのです。

ここでは神に愛されているという言葉が繰り返し、 重ねられて言われます。神に倣うものは、愛の中に歩きなさい。 神に愛せられ、神を愛して生きているということは、 その心がいつも神の愛を供給されている。

愛するという行為は自分よりも他者の思いをくみ取ることでもあります。 自己愛が先行する人は、他者を愛することをしていないものです。 人を愛するときは、いつでも自分の欲に勝つか、他者の思いを第一に汲むかを、 選び取らねばなりません。人を愛するとき、 往々にしてまず自分の欲望をいかに克服するかが問われます。 それは時には相手の立場に立つことにもつながります。 よく言われます understand -理解するという言葉は相手の下に立つという事からきている。 それはときにはこちらの自分の感情を殺すことにつながります。 人を愛するからこそ、自分の思いを飲み込む。 それは聖霊によってでしかなしえないことです。 それは聖霊を仰ぐ生活をしていなければできないことです。 罪を犯すのはとっさのことです。 日頃の自分では考えてもいないことを言ったり、行(や)ってしまうのが人間です。 それはかねがね聖霊によって自分に勝つ生活をしているのでなければ できることではないのです。

キリストは自らをいけにえとして、 神にささげられたと聖書は語ります。 つまりそれによって私たちの罪が許され、神の愛をいつでも、 どんな時でも確信できるようにしてくださった。 だからそれを真似しなさいということでなく、 むしろそれによって生かされなさい。 私たちはそれによって生かされるのです。 4章の終わり4:32には 「互いに親切にして憐みの心で接し、神があなた方を許してくださったように、 許しあいなさい」

パウロはキリスト者の生き方―キリスト教倫理といわれますが、 これを単に <許し> とか <憐れみ> というより、 <神に倣う> という最高の基準に置きました。驚くべきことです。

それもそれを <神に愛されている子供として> 単純で明快に律法主義の枠からも解放して自由な信仰のもとに土台を置いたのです。

現代の世界に最も欠けているのが愛し合う・赦しあうという根源的な出来事です。 われわれのようなものが、神に愛に生きる生活が可能になったのです。 愛される子供にさせられました。 この事実を受け取るように今日差し出されています。 膝まづくしかありません。

(2021年09月19日 礼拝メッセージ)


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