神のわざに押し出され マタイによる福音書 9:9-13

イエス・キリストは3年の間12人の弟子を御そばにおいて訓練しました。 12人はイエス様に倣おうとして、イエス様と寝食も共にし、行動して、 イエスから教えと訓練を共にしたのでした。 ただその人たちは特別に地位の高いエリートとか、 優秀な成績を収めた学者・教授だったという人は、 12人の中には誰一人いなかったのです。 むしろその中にはイエス様の弟子にふさわしいとは、 思えない人も何人もか居ました。 例えば <熱心党のシモン> という人がいます。 熱心党とは常に長いローブを着てローブの下には 刀や匕首を所有してローマ兵とみればしばしばテロを実行する はなはだ危険なテロリストの一員だった。 むろん主イエスの弟子でありつつ、 熱心党の一員であり続けることは不可能なことです。 しかしその鮮やかな変貌を覚えて、 収税人マタイとか熱心党シモンと仲間内で呼ばれたのかもしれない。

さて、そのひとりが、本日の主人公である、収税人マタイです。 いまの社会では、税金を集める仕事は国や公共のための大切な仕事です。 お年寄りや病人の福祉とか、学校の運営、警察や消防とか、 税金はそのために使われます。 けれど、いまから2000年前のローマと ローマとの戦いに敗れローマの属領(植民地)となった地域は きびしい取り立てが課せられていました。 ローマを盛んにすることは即、戦争に勝ち続け、 新たな領土と奴隷労働者を獲得し続けることでした。 ローマとの戦争に負け、ローマの属領となった弱小民族は税金を搾り取られたのです。 そもこの時代ユダヤでは住民はエルサレム神殿への納税に加えて ローマ帝国への人頭税を合わせると全収入の3割から4割になったのではと書いてあります。

マタイは収税所で税金集めの仕事をしていました。 マタイはレビとも呼ばれていた。祭司階級に生まれたのかもしれない。 どこでどう道を外したのか。 多くの人は収税人は権力に魂を売った民衆の敵くらいに思っていた。

収税の方法は請負でした。 最低限の課税額は決まっていても課税は収税人の言い値だったようです。 相手を見て、金がとれそうとか、弱そうな人には、 決められた税金をうわまわってを奪い取って、 国には決められた一定額の税金を納めて、 たくさん取りすぎたお金は自分のものにしたのです。 特にユダヤでは、ローマへの税金、神殿のための税金、 後にはユダヤの王様のための税金、 ローマの神殿のための税金まで押し付けられたと書いている人がいます。 人々は搾り取られたのです。 ですから、とても貧しかった。 結局それはイスラエル人の怒りとなって67年から70年までローマに対する 絶望的な戦争にまで発展してローマはユダヤを鎮圧するのに 3年以上の年月を要する大反乱となり、 ユダヤ人は2千年の間流浪の民としていっそうの苦難の年月を歩んだ。

当然、収税人たちは金持ちでした。 金が余るものですから、それを元手に、高い金利でお金を貸したのです。 この辺にもあるでしょう。武○○とか、プロ○○、ライクとか。 泣く泣く税金取りからお金を借りて、返せなくて、奴隷になったり、 人々はこの税金取りを憎みました。

人から嫌われて、憎まれる代わりに、 大金持ちになる気持ちはどうなのでしょう。 それでも税金取りでいたいのだろうか。 それでも心を鬼にしてでも金持ちでありたい? 収税人たちも人間の心を持った人間なのです。

イエス様は、そういう税金取りの気持ちをよく分かっていた。 ですからマタイにまず、<私に従いなさい。> と声をかけた。 マタイはこんな仕事は正しくないと思っていた。 だってまさにこれは国家による強奪だもの。 心の片隅ではそう思う気持ちもあったけれど、 現実は貧しい人をますます苦しめていた。 そして多くの人から憎まれ続けていた。 つまり彼らはやめる機会―チャンスを求めていた。 だからマタイは、何の迷いもなかった。

迷いがなかったどころかすぐにイエス様を招いて、 彼はたくさんの人々を招いて、豪華なパーティをしたのです。 マタイはつい先日まで仲間であった収税人たちをそこに招きました。 彼らはマタイがうらやましかった。 だからここで、イエス様の弟子に新しくなった人々もいたかもしれない。 さらには罪びとたちもいたというのです。 マルコ福音書の2:15口語訳では <こんな人たちが大勢いて、イエスに従ってきたのである>

そこに文句をいう人々がいました。
9:11 「なぜあなたがたの先生は徴税人や罪びとと一緒に食事をするのか。」
食べるということは楽しいことなのに、 この時代の人々は、何を食べるのか、どう食べるのか、だれと食べるか。 決まりに従った食べ物の食べ方、決まりを守る人々と食べることが、大切だったのです。 決まりを守らない罪びとや、税金取りと食べることは、ダメだった。

そのときイエス様が言われたのは、 イエス様は心も体も、人生も癒す方だと言うことです。 ファリサイの人からすれば<マタイ>や仲間の税金取り、罪びとは、 どうしようもない、希望のない罪びとでしかない。 いなくなれば良いだけの人間、地獄の薪でしかない人間なのです。 けれど心の医者であるイエス様によって、マタイは弟子になりました。 そしてマタイ福音書は、マタイが書いたのだと長く伝えられてきました。 ただの税金とりで人々を苦しめ、 金、金、だけでしかない人生を歩んだかもしれないこの人が、 新約聖書の最初の本の著者ともなったのです。 彼は立ち上がってイエスに従った。

神様の働き、聖霊の働きは、やまってしまったのではありません。 神様はマタイだけを弟子にしたのではなかった。 マタイのような税金取り、罪びとといわれた多くの人々が主の弟子になりました。 マタイはほかの人はともかく、自分だけは幸せで、 安らぎのアル日々を送ることなど絶対に出来ないと思っていたことです。 しかし、突如、こうした出来事が起こるのです。

人間関係でもそうでしょう。 彼がまともになるはずは金輪際起こるはずはない・・・ と人間的には深く確信できる人が、神に赦されて、 全く違った人生を歩み始めることはあるのです。 神のわざとはそうしたものです。 徴税人マタイから第一福音書著者マタイの誕生は 一瞬とは言いませんがそこには永遠の神の憐みが投げかけられています。 聖霊のわざとはそうした出来事です。 わたしたちはなお神に期待して、歩みましょう。

(2021年07月25日 礼拝メッセージ)


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