神の前に、真実に マタイ7:15−29

本日の聖書の箇所は、山上の説教の締め、結語に当たる部分です。 山上の説教を読み返して、 自分はどんなに立派にこのことばを生きているだろうかと 得意になれる人は少ないと思います。 というのも山上の説教はこれを読めばそれに対する態度決定が求められるのです。 「姦淫してはならない」 まではわかっても、<みだらな思いで、他人の妻を見る者は誰でも、 すでに心の中で姦淫を犯しているのだ> という言葉は、人をイエスの言葉から遠ざける強さがあります。 さらに <天に富を積みなさい> <復讐してはならない> <敵を愛しなさい> にも読み飛ばせない重圧感があります。

オリンピックのあとに総選挙が予定されているとマスコミはが伝えています。 そもこのオリンピックは日本が原発災害に打ち勝った証しとして招致されたはずでした。 ところがメルトダウンした原子力燃料の処理も、 汚染水の処分も全く見通しがついていないのです。

これだけ原発の問題が深刻なのに、政権党はもちろん、 野党も一致して反原発を争点として取り上げようとはしていません。 大企業の業績は上向いていますが、雇用や賃金は改善してはいない、 とも伝えられています。 最近はあちこちに子供食堂が盛んですが、 いわゆる貧困家庭といわれる子供たちの数は1985年には10,9%(10人に一人) だったのが2015年には13.9%(7人に一人)にまで増加していると伝えられています。 政治家という社会の最底辺を救うことのできる政治家の 言葉と感覚から安心と信頼は遠いのです。 親である者にとって、子供には嘘はついてはいけない、 人とは仲良く、いじめに加わってはならない、 喧嘩はするなと口を酸っぱくするほど語ります。 でも、妻とは深刻な喧嘩をしていたり、 感情的になって手をあげる男も少なくはないのです。 正論を振りまわす男でも(女でも)心の中は矛盾だらけです。

こんな堂々とした正論を語りながら、そこに一切の矛盾も、 疑いの匂いすら感じさせないイエスキリストという方は、 いったいはなんという人だったでしょう。 マタイは山上の説教の最後の言葉にイエスは 「律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになった。」 と書きました。 疑いの匂いなどどこにもない。主イエスの言葉は安心して聞けたのです。 どうせ公約だからとか、数年たったら違ったことを言っている・・というのでなく、 信頼に足る言葉だから、それに身を寄せて、 自分自身をかけてもいい言葉。

主イエスが権威をかけて話される言葉だから、信じていいのです。 いや、信仰を持って受け入れて、これをわたしのことば、 わたしの生きかたとして、信じるべき言葉として受け入れるのです。 むしろどうせそんなことは不可能だとあきらめることこそ、 罪に人を向かわせるのです。

人が生きるということは、愛すること、許すこと、 信じることを抜きにしては不可能なのです。 しかし人はつい  <愛することより、憎むことや>  <信じることより、疑うこと>  <許すことより、復讐すること> がすきなのです。 主イエスはこの山上の説教で、この愛や許しや信じることを、 人間の可能性の視界に取り戻してくださったのです。

ただ最後の部分でこの主イエスのことばは実行できなければ、 何の意味もないように受け止められるかもしれない。
24-27 「聞いて行うものは賢い。聞いても行わない者は、砂の上に家を建てた愚か者」

24節の「わたしの言葉を聞いて行うものは」 という主語の後に英語の聖書では、will be a wise manとあります。 イエスの言葉を聞いて行おうとするものと、ちょっと無理かな、 いやとてもダメだと思う人の違いは、どちらにしても、 そんなに大きい違いではないように感じます。

けれど事は信仰の問題なのです。信仰は志を立てることから始まります。

人は、何ゆえにか、神の働きかけをキャッチします。 このままではならないと、イエスキリストの迫りを感じるのです。

主の言葉を信じて歩もうとする人と、 信仰に賭けることのない生きかたをする人は、やがては、 つまり未来においては、賢い人と、愚かな人が分かれるように、 大きな違いとなって人生のやがては歴然とした違いとして、 人生の嵐にも耐え抜く大きな違いをもたらすのです。

今回もいろいろな聖書をひらいてみました。

24節「そこで私のこれらの言葉を聞いて行うものは皆、 岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」

くりかえしますが英語訳のresvised standard version 訳に 「私の言葉を聞いて行う」者・・・という主語のあとに英語で will be a wise manとあります。 どういうわけか未来形なのです。 よくわかりませんがその時点では主イエスの言葉を聞いて行おうとするものと、 ちょっと無理かなと迷う人の違いはそんなに大きく違うわけではないのです。 信仰者には信仰によって歩む未來があります。 歩幅はたとえ小さくても、主の言葉を信じて歩むとする人と、 信仰なしに生きる生き方をする人とそうでない生き方をするものとまったくちがった、 人生となるのです。 あなたは信仰の未来を信じますか。

(2021年07月11日 礼拝メッセージ)


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