世の光としての教会 マタイによる福音書 5:13-15

本日与えられている聖句は
「地の塩である。あなたがたは<地の塩>である。…13節、
・・・あなたがたは<世の光>であると語られました。

弟子たちも、私たちも、そう語られれば、 努力して <世の光><地の塩>たらんと目指します。 たしかに人は自分の努力で変えたりコントロールできる部分は確かにあります。 しかし高齢者が年齢を重ねる中で、 周囲の期待どうりにふるまえない部分が出てくることはやむを得ないことです。

迫り来る死や、 死の恐怖を克服することは人間にとってできうるはずもないことと思います。 けれど、すでに90歳を超えた方で、すでにお医者様のなすべきことはすべて手をつくして、 今日か、明日にでも生涯の終わりが来るというという状態を迎えた方のご家族から 呼ばれたことがあります。 顔は黄疸で、すっかり黄色くなっておられましたがわたしを呼んで、 娘さん夫婦とともに最後の礼拝をと祈りをしてほしいという事でした。 お宅に伺うと彼女は布団にしっかりとお座りになって みことばと祈りの時を持ってくださいました。 その後で天国に旅立たれた方もあられました。

キリストに心開いて、心向けて、キリストの心を心として生きようとすると、 人は人生の最後でも人を奮い立たせるほどの迫力を持ちます。 キリストがそこでは人を世の光にしてくださるのです。 普通のどこにでもいる人を世の光に作り変えるのです。

ヨハネ福音書を欠いたヨハネは12:36節で (193p)
「光は今しばらく、あなた方の間にある。 暗闇に追いつかれないように光のあるうちに歩きなさい。 暗闇の中を歩くものは、自分がどこへ行くのかわからない。 ひかりの子となるために、光あるうちに、光を信じなさい。」

キリストは「光を信じた者は光の子となる。」と断言するのです。

創世記には光は神が造られたそして主イエスキリストが世の光となられ、 それによって我々も世の光とされました。我々こそ世の光になったのです。 この<世の光は山の上にある町>のようだ。 たぶんその街とかは名前も分からない街なのです。 小さな町なのですが、やまのうえにあるので、つまりそれはよく目立つのです。 信仰をもっているキリスト者が当然のことをするととても人の目を引くことがあります。

ジェイコブ・ディシェーザーという名の宣教師が1949年12月に渋谷で、 キリスト教の伝道トラクトを配り、これを受け取った一人の中年男性が偶然出会いました。 この宣教師、ジェーコブ・ディシェーザー氏は戦争中アメリカ空軍パイロットでした。 1942年4月18日、日米戦争が始まって4ヶ月目。米軍はまだ西太平洋では劣勢でした。 米空軍は何とかして宣教を逆転することに必死でした。 そこで大型爆撃機機B25爆撃機を航空母艦からの発進させ 東京・名古屋・神戸を爆撃させて中国の基地まで飛ばせたのです。 それは、ほぼ不可能な作戦でした。 その航空母艦から爆弾を満載した大型機を発艦させることなど無謀に近い企てでした。 しかもこの作戦に協力した仲間のパイロットたちの中には、 九州で撃墜され、九州大学で生体解剖されたという悲劇的な取り扱いまで受けたのです。 デシェーザー氏は中国で捕らえられ、凄惨な拷問を受けたのです。 当然日本人への激しい憎悪と復讐心だけが支えだったのです。 しか捕虜収容所で彼は聖書に出会います。 彼は戦争が終わったら、この日本人に福音を伝えよう。 キリストの心を届けようと決心するのです。 つらい3年を超える収容所生活を耐え抜いて、ディシェ−ザー氏はアメリカに帰国し、 神学校を卒業して日本に来て、フリーメソジスト教団の宣教師として力をつくしたのです。 何万人という人に福音を伝え、洗礼を施したそうです。 そして1949年12月にディシェーザー氏からトラクトを受け取ったのが、 真珠湾攻撃の飛行隊長だった淵田美津夫さんでした。 淵田さんは真珠湾攻撃の飛行隊長をつとめた方で真珠湾攻撃においては 350機以上の爆撃機戦闘機を引き連れて真珠湾に乗り込んだ飛行隊長でした。 淵田さんは受け取ったトラクトがきっかけでキリスト者となり洗礼を受け 伝道者の道を選び取ったのです。 戦後長いことアメリカに残り、 真珠湾攻撃でなくなった多くの人々を訪ねては謝罪をしたのです。

人はイエスによって変えられると、 いつしか、地の塩、世の光に変えられているのです。 ディシェーザー氏も最初から日本人を許そうとは思っていなかったでしょう。 ましてや親しい仲間が遠藤周作さんの小説「海と毒薬」に取り上げられたような 戦争犯罪の犠牲者にされるほどの、残虐行為の被害者となったことを知って どれほどの憎しみを日本人に抱いたことでしょう。 しかし聖書の神に出会ってそれでもこの日本人を許し、 人間が世の光として生きうることの可能性を持っていることを彼は信じたのです。

人は自分でも感じ取れないのですが、 「あなたは世の光なのだ、地の塩なのだと主イエスが言ってくださっている」のです。 けれど13節をみると <塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩気を取り戻すのか?> という言葉があります。 われわれ自身を見て、自分は真正な塩なのだろうか、 それらしく見える見掛け倒しの塩なのか、光なのか、不安になります。

ただそう断言して下さっているのはイエスその方なのです。 あなたがたは、迫害されたかもしれない。 ののしられ悪口を投げつけられたかもしれない。 何故我々が地の塩であり、世の光なのか。 キリスト者らしく見えるから? 持ち前の正義感が備わっているから?

そうではありません。 我々がキリストのものとされたからです。 キリストのものとされ、キリストのつながり、 キリストと心ひとつとされているからです。

主イエスが 「あなたは地の塩なのだ」「世の光なのだ」 と宣言してくださるのです。 そして選択の余地もなく、そこに身をおいた人は、 地の塩、世の光として、行動するようになるのです。 キリスト教は言葉だけではありません。信仰に生きようと志を持つときに、 人間は滅びないで、踏みとどまるのです。 キリストがわたしたちを見放さないのです。

(2021年06月13日 礼拝メッセージ)


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