キリストを主と仰いで エフェソの信徒への手紙 5:21-33

教会では時折結婚式が行われます。 結婚式では大抵新郎新婦への教えが司式者によって読まれます。 (ちなみに私は朗読しません)

共同訳 「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。 キリストが教会のかしらであり、自らその体の救い主であるように、夫は妻のかしらだからです。 また教会がキリストに仕えるように妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」

口語訳 「妻たるものよ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。 キリストが教会のかしらであって、自らは、体なる教会の救い主であられるように、 夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、 妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。」

わたしは結婚式において通常の式文を使いませんので、この聖句は読みません。 あまりにも差別的で、問題があると感じとられるからです。 とはいえこの文章があるからこそ、結婚式の意義があると強調する牧師もじつは少なくありません。

22節以下は、 当時ローマ帝国内で一般的だった家庭訓が取り入れられたものと解説する注解書があります。 当時、キリスト教会は、ユダヤから地中海世界へと大きく飛躍する中で、 市民権を得るためにローマ世界に妥協したのだと言うのです。 パウロは初期の書簡であるガラテヤ書では
3:26「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子のなのです。 洗礼を受けてキリストに結ばれたたあなたがたは皆キリストを着ているからです。 そこではもはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分のものもなく、 男も女もありません。あなたがたは皆キリスト・イエスにおいて一つだからです。」

そうした言葉から、「夫は妻のかしらである。」「妻は夫に仕えなさい。」 と繰り返して言う言い方は男女の完全な平等や女性の隷属的な地位からの解放は読み取れません。 じつはずいぶん前の書物ですが、荒井献先生の書かれた「新約聖書の女性観」という書物の中で、
『イエス伝承において、ほぼ一貫して男と女は平等に位置づけられておりました。 とくにイエスの受難・復活伝承において女たちはイエスの十字架と復活の証人として、 その場面でイエスを見捨てる男弟子に対置される形で高く評価されておりました。 このような女性の位置づけは当時の男性社会の中ではじめから差別されていた女性、 とりわけその上に心身の障害や病気などで二重に差別されて女性の位置に 自ら立ち尽くそうとしていたイエスの振る舞いの反映であった。』

そこに主イエスの言葉を受け止めつつ、教会がなお拡大する中で、 どう社会と折り合いをつけて主イエスの言葉と社会のあり方を どう折り合いをつけていくかの戦いがあったと言うべきなのだと思います。

パウロは <キリストに対する畏れをもって、仕えあいなさい> と語ったうえで、妻たちに向かい <主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。> と勧めます。夫への教えと比較します。 妻への教えは22-24節までですが、夫への教えは25-29までです。 妻への教えの二倍です。 それも25節 「キリストが教会を愛し、教会のためのご自分をお与えになったように、 妻を愛するのだと言うのです。」 キリストは自らを十字架につけたのです。 これはすさまじいまでの愛です。

しかもキリストは愛する相手を、 <清めて、聖なるものとして>  <しみやしわの、何一つない、聖なる、けがれないもの> となるように、いたわりに満ち、愛に満ちた存在として、愛したように、 夫は妻を愛さなければならない。 21節ではお互いに仕えあいなさいといわれていますので、 夫は妻に仕えつつ、それほどの愛を相手に注ぎかけなさいと、 パウロは命じます。

33節ではパウロは総括的に「あなたがたは妻を愛しなさい。 妻は夫を敬いなさい。」と言います。 仕えなさいと言っていたパウロの女性への言葉がここでは <敬いなさい> に変わります。

愛すること、仕えること、敬うことは お互いにつながっている言葉です。 愛が崩れると、仕えることも、敬うことも崩れていくのです。 そしてやはりここには神とのつながりが土台になっているように思えます。 結婚生活、家庭生活は、神によって制定され、始められたものです。 われわれはキリスト教信仰など無縁に来ましたと言う人も、 赤い糸で結ばれたなどと言ったりします。 不思議な縁で人と人はつながれているのです。 お互いに誠実な愛の言葉で約束しあうのです。 しかし家庭生活が始まったとたん、様々な破綻、敗れ、 弱さが現れてくるのに違いありません。 パウロの言葉ほどには到達しにくいのですが、 それでも、お互いにこのキリストの模範を目指して、 仕え、愛し、敬い合うことが、どれほど欠けているか、 つかり今のわたしたちに必要なのか自覚すべきなのだと思います。

6章にはいると夫婦に加え、当時の家を構成した子供と奴隷が登場します。 これは言葉からいけば、まさに典型的な家庭訓に響いてきます。 見方によれば当時の秩序や体制を宗教的に擁護したと批判されなくはない。 しかし、やはりここには一つの言葉が引きます。 主、つまりイエスキリストです。 自分が地上で、幸福に、長く生きることができるために、 父母を敬うという、家庭訓ではない。 パウロは、エフェソ書で、キリストの体という教会論を語ります。 3:14-17、4:1-5、5:1、5:8,9、 信仰を生きることは、それ自身大きな自己改革をもたらすものだった。

それはいまもおなじで、言葉の上で、 家父長的家族関係や男性優位をこの言葉によって肯定するような読み方をするとすれば、 とても大きな読み違いをすることになるのではないでしょうか。 親子関係の中で、父親たちに、子供を怒らせてはならない。とパウロは語りかけます。 当時子供の教育を担っていたのは父親であったようです。 しかしそのやり方はたぶんに権威主義的であったらしい。 鞭を使い暴力的に行われていた。 しかし、今の日本でも問題になりますが、親の自己満足のために与えられたのでもない。 子供は親の所有物ではない。子供が両親に従うことが命じられ、 親に養育の権利が与えられているのは、神が愛してやまない宝である子供の養育を、 神が託したからです。 そうした目から現代の日本社会を見るとき、はびこる虐待、受験を通して起こる抑圧、 心病んで、犯罪に走り、希望の見えない社会のあり方。 当時の家庭訓を逆手にとって、キリストの福音に目を向けさせ、 キリストが主として迎えられるときに、実現する出来事を、 伝えようとしたパウロや教会の姿勢に深く学ばさせられます。

(2021年05月30日 礼拝メッセージ)


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