永遠の同行者 ルカによる福音書 24:36-43
キリストは復活され40日の間弟子たちに会い、 神の国について彼らに語られたとルカは使徒言行録の冒頭に書きました。
40日前にキリストを裏切った弟子たちは、 キリストの復活を語り伝えることになります。 弟子たちはその目で復活した主イエスを見るまで、 かれらの目の前におられるのが他ならぬ3年間共に過ごしたイエスだとはおもえなかった、 クレオパたちも、イエスを前にして、主イエスとは思ええなかったし、 会話をして声も聞いたけれど、実はキリストだとは思うことはなかった。 マタイ福音書の主イエスと弟子たちの最後の別れの部分で 主イエスは弟子たちに向かって弟子たちに 全世界に出て行ってすべての人々に福音を伝えなさいと命令しますが、 弟子たちになかで疑うものもいた、と28:17節で述べられていますが、 あるかなり保守的な聖書学者がこの時点で 復活を信じている弟子など一人もいなかったとさえ書いています。
繰り返しますが <37節>で 「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」 この彼らとはそこにいた人々、11人の弟子たち、クレオパとその友人、その他の人々全員です。 「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」 亡霊はたたりや復讐をもたらすと考えられます。 弟子たちには、主を裏切り、見捨てたという心の弱みがあります。 その結果主イエスは十字架に釘付けになったのです。 彼らは結束して主イエスを守らねばならなかったのに、主を死に追いやるままに、 自分を守るために散りぢりに逃げてしまった。 裏切り、疑い、迷い、心の弱さは、こうた幽霊や亡霊の存在につながるのかもしれません。
主イエスは亡霊ではないことを示すために、 そしてまさに復活した証しを確かめさせるために、弟子達に手や足を見せられた。
40節 手と足にはつまり十字架に釘付けられた傷跡を見せたのです。 そこに立っている人が主イエスであることを証明して見せた。それでも
41節「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていた。」
この叙述はとても矛盾しています。それが主と信じられないなら、喜ぶことはないのです。 彼らが喜んだと言うことは、主イエスが復活したことを知ったからです。 でも信じるきることがまだできなかった。これは矛盾していますね。 まさしくこの状態は半信半疑。半分信じているけれど、残りの半分は疑っている。 でも人間の心というものは一挙に飛躍できないのです。 目の前にいる方はまさしく主イエス・キリストに他ならないのです。 でも彼は死んだ人ではないか。なぜこうなっているのだ。 なぜここで話し、微笑んでおられるのだ。 現にここにおられるのですから、これは本当に嬉しいことです。復活とはまさか、そんなことが、と誰しも思うことです。 目の前にいてさえも、信じ切れないほど大きな出来事です。 でもそれは幽霊ではなかった。見間違いでもなかった。 弟子たちは主イエスに受け入れられ、許され、そして愛されたのです。
思えば教会というところは、2千年の教会史の中で、 様々な思い違いを犯してきた。2千年の宣教の歴史は、 植民地主義と手をたずさえての宣教という部分もありました。 むろんその逆の立場に立って労苦した人々もいた。 人種差別やアパルトヘイトとさえ結びついた教会もあった。 由木でだって、戦争中には戦勝祈祷会が当時の監督だった中田重治を招いて何度も行われた。 そうした事々を一つ筒掘り返して、悔い改めや謝罪を何度と無く行ってきたことです。
けれどこの足りない我々弟子達のなかで、 イエスキリストはなお生きて働かれます。 そこではこの世的可能性をはるかに越えた神の働きとしか言いようの無いことが、 起るのです。いつも我々に都合のよいことばかりが起こるわけではありませんが、 時として本当に主は復活した。 本当に主がここにお出でになることを知らされるのです。 そしてしばしば変えられるはずもないと思うエゴイストが、 献身的な愛情あふれる人のなるような出来事が起こるのです。 つまり教会ー主が生きておられることでしか起こらない出来事が起こるのです。
キリスト教のメッセージである和解と許しは、 本当にこの心に生きえたら、日本も、世界も変わります。 どれほど社会は健全になるでしょう。主が復活してここに生きておられる。 主と共に、歩むところにまさか、そんなことが思えるようなことが実現します。
本日の聖書日課はこの不甲斐ないと言えば、 不甲斐ないキリストの追随者たちが、もう一度、 弟子としてキリストに建てられるという物語です。 クリスマスの出来事で始まったルカ福音書のその最後の場面と言うことができます。 50,51節
<イエスはそこから彼らをベタニアのあたりまで連れて行き、手を上げて祝福され た。そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。>
<彼らはイエスを拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、 神をほめたたえていた。>
この二つの文章をもってルカ福音書は終わります。 とはいえルカ福音書と使徒言行録は同じ著者ルカによるもので、 しばしばルカ文書といわれもします。 ルカ福音書は主イエスによって福音が宣言され、弟子たちが導かれ、 弟子団が構成され、やがて十字架と復活によって主イエスが天に帰り、 使徒言行録では聖霊の降臨によって上から教会がかたち造られ、 ローマ帝国全体に向かって福音が伝えられてゆくという ルカ福音書と使徒言行録が上下の形で構成されているからです。
で今日の部分は、 弟子達には不思議な喜びの姿というのが印象深いのです。 ご存知のようにイエスキリストが十字架にかかられたとき、 弟子たちは予告されていたはずのその出来事があまりに悲劇的であり、 衝撃的であったものですから、係わり合いになることをただ恐れた。 その危険から逃れられるなら嘘もつくし、弟子であることを否定もしました。 そうして自分自身が何者であるかを深く理解しました。 それは弟子として立ち上がることのできない心の傷でした。
しかしイエスキリストは復活して、 やがて裏切られたイエスキリストこそ私はあなたがたの裏切りで傷ついたという立場であるのに、 弟子たちを許し、むしろ本当の自分と向かい合った弟子たちを、 再び弟子として迎いいれ、弟子たちを再生させられるのです。
この最後の部分には41節 <喜びのあまり> と言う言葉があります。 或いは52節では <大喜びで> と言う言葉があります。 イエスキリストは復活して40日間ほどを弟子達と過ごしました。 その間弟子たちは、イエスの深い許しと愛に彼らの心は変えられたのです。 不安と憂いは、それはそれとして心に刻まれていますが、 大きな喜びが弟子たちの心にあふれていったのです。
私はこの部分を読みながら、 クリスマスの物語を読んでいるような思いになりました。
2:8−20 羊飼いたちが野原で夜、羊の群れを守っていたとき、 突然、天使たちの御つげを聞き、で幼子イエスの誕生を知ります。 急いでベツレヘムの聖家族のいた馬小屋に向かい、幼子主イエスに会います。 彼らは救い主の誕生を心から喜び、神をあがめ、賛美して野原に戻った。
別に彼らの状況がよくなったわけではありません。 あいかわらず強欲な支配者が重なり合って民衆を搾取しています。 彼らが社会的に楽になったわけではありません。 でも昨日まで彼らの生活に感謝や喜びや、賛美はなかったのですが、 神のはかりしれない視線が注がれ、その神はユダヤの王や、 ローマの皇帝よりはるかに強い力を持って彼らを祝福してくださることを、 彼らを頬って置かないことを実感できたのです。
弟子達も今後何がおこるかわからない状況でした。 主イエスが処刑されたのは、それは冤罪とはいえ政治的、社会的理由をつけてのことです。 迫害が及んでこない安全宣言などはあるはずもないのです。 でも不安は不安として、彼らは非常な喜びにひたることができたからです。
キリスト教信仰にはそうした側面が確かにあります。 キリストを主と仰ぐことによって、信仰なしには不安が人を圧倒するのに、 そこに人間の力を越える平安が与えられるのです。
詩篇3編
人にもよるし場合にもよるでしょう。しかし本気に神に頼るときに、 神は私たちの祈りを聞かれる方です。じつは24章45節弟子たちは主イエスの弟子として、落伍者です。 失敗し、エルサレム中の笑いものになった。 でもそんな状況におかれたらむしろ誰でもそうせざるを得ないかもしれない。 主イエスが復活して、弟子たちのだらしなさを追及する場面は、いっさいありません。 ご自分が復活されることによって、 主イエスは弟子達を復活させることにすべてを注ぎ込んでいるようです。
主イエスが行われたのは<彼らの心の目を開いて>です。
過去を振り向いて、 失敗や過ち 恥じや心の傷を持たない人はだれもいないと思います。 人それぞれにやり直せるものならやり直したいと思う思いはあるのではないでしょうか。
30,−32節で、主イエスはエマオに行く旅人と共に食事をし、 「心の目」を開かれました。すると新しい世界が開けたのです。 主イエスはイエスと共に歩もうとする人の心の目を開き、 心そのものを変えて新しい人生に踏み出させる刀のです。
今の日本も、そこに住む私たちも、様々な困難に直面させられます。 しかし主イエスへの心の目だけはしっかり見開いて、 イエスと共に歩むものでありたいと思うのです。信仰の歩みも一歩前進しましょう。
(2021年05月16日 礼拝メッセージ)