神の酬いのゆえに マタイによる福音書 6:1-4

つまりことは1節<善行>あるいは2節<施し>に関する主イエスの教えです。 現代社会は一方では膨大な食品ロスに象徴される、豊かでものにあふれる日本で、 国民の三分の一が貧困家庭に属するなどと言われだしています。 世界に目をやるとユニセフの報告などでは直視することが つらくなるほどの餓死寸前の幼い子供たちの姿が登場したりします。 こうした地球社会に身を置いているわれわれは どこかで施しのために手を伸ばさないわけにはいかないと思います。 旧約聖書の十戒を中心とする律法は戒律と神の命令と受け止める人がいますが、 その中身は人道主義への呼びかけです。(出エジプト22:20-26)

そこに主イエスは畳み込むように言われます。施しをするときに
「偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、 自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」
「見てもらおうとして人の前で善行をしないように注意しなさい。」

善行・小さきものへの施しが圧倒的に、目の前にいる小さきもののためなのか、 あるいは与えるものの自己満足のためなのか、誰にも見えません。 まさしく神と、与えるもの本人しか会い知らぬ世界なのです。 ・・・それでも助けの手を閉ざすよりもはるかにましとわれわれには思えてきます。 だからでしょうか主イエスはさらに踏み込んで、3,4節 「施しをするときは、右の手のすることを、左の手に知らせてはならない。 あなたの施しを人目につかせないためである・・・。 たしかに毎年年の瀬を迎えると人を驚かせる匿名の献金や ランドセルが養護施設などに寄せられることがあります。 ですが主イエスの言葉通りに 「施しをするときは、右の手のすることを、左の手に知らせてはならない。」 そんなことが人間に可能でしょうか。

年齢が増すと直前の記憶が飛ぶと言います。 確かに何かを探しにこの部屋に来たのに、 それが何だったかわからない…というような小さな物忘れは誰にも経験があります。 しかし大切な知人が苦境に陥った時、心が痛むほどの援助をおこなったとき、 右の手のしたことを、左の手に知らせない・・・ という事は可能だとすれば最高の援助の在り方につながる。

実はマタイ福音書6章でくりかえされている一つのフレイズがあります。

1節「天の父のもとでの報いをいただけないことになる」
2節「すでに報いを受けている」
4節「隠れたことを見ておられる父があなたに酬いてくださる。」
6節「そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が酬いてくださる。
18節「それはあなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにいるあなたの父に見て いただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が酬いてく ださる。

< くりかえし、くりかえし隠れたことを見ておられるあなたの父が酬いてくださる >
< 天の父のもとでの報いがある>
と主イエスは噛んで含んで語ってくださいます。

今はコロナ感染症がいよいよ手の付けられないパンデミックの様相を示しつつあります。 それは社会不安の増大となり11年ぶりで自殺者数の大幅増加を招いていると伝えられました。

罪びとに過ぎない私たちのために、独り子イエス・キリストを犠牲にして 差し出すほどの神の愛が注がれています。 私たちの人生の歩みを隠れたところでじっとみつめられる天の父がまなざしを注ぎ、 それでもあなたの歩みには神の酬いが伴うと言ってくださる。

神さま、ふつつか者ですが、この時代に、 わたしの右の手を左の手を用いてください。  アーメン

(2021年05月09日 礼拝メッセージ)


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