弟子たちを招かれる復活の主 ルカによる福音書 24:40-53

先ほど朗読していただいた聖書個所にはマタイ・マルコ福音書とは異なる、 弟子達には不思議な喜びの姿というのが印象深いのです。 イエスキリストが十字架にかかられ たとき、弟子たちは予告されていたはずの出来事ではあったけれど、 それはあまりに悲惨で血なまぐさい、 あまりに悲劇的であったため受け止めきれない姿がありました。 まさかそんなことが起こるはずもない…という理解です。 ところがその衝撃的な事件がそのとおり起こってしまった。 弟子たちはあわてふためくとともに、 今度は係わり合いになることをただ恐れた。 彼らは危険から逃れられるなら嘘もつくし、弟子であることを否定もしました。 そうして結果として自分自身が何者であるかを深く理解しました。 それは弟子として立ち上がることのできない心の傷でした。

弟子たちのみじめな挫折と裏切りなど存在しなかったような イエスキリストの姿があります。 そこには恨んだり悲しんだりする人間的な感情をはるかに超えた イエスキリストの許しがあり、 戸惑いながらその世界に導かれる弟子たちの姿があります。

50,51節
「イエスはそこから彼らをベタニアのあたりまで連れて行き、 手を上げて祝福された。そして祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」
「彼らはイエスを拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、 神をほめたたえていた。」

この二つの文章をもってルカ福音書は終わります。 とはいえルカ福音書と使徒言行録は同じ著者ルカによるもので、 しばしばルカ文書といわれもします。 ルカ福音書は主イエスによって福音が宣言され、 弟子たちが導かれ、弟子団が構成され、 やがて十字架と復活によって主イエスが天に帰り、 使徒言行録では聖霊の降臨によって上から教会がかたち造られ、 ローマ帝国全体に向かって福音が伝えられてゆくという ルカ福音書と使徒言行録が上下の形で構成されているからです。

たしかに、 イエスキリストの復活と昇天による弟子たちの赦しと再生とは、 神による筋書きと計画によるものでした。 その時、裏切られたイエスキリストこそは、 私はあなたがたの裏切りで傷ついたという立場であるのに、 弟子たちを許し、むしろ本当の自分と向かい合った弟子たちを、 再び弟子として迎えいれ、弟子たちを再生させられるのです。

ですから不思議なことに、 この最後の部分には24:41節 <喜びのあまり> と言う言葉があります。 或いは52節では <大喜びで> と言う言葉があります。 イエスキリストは復活して40日間ほどを弟子達と過ごしました。 その間弟子たちは、イエスの深い許しと愛に彼らの心は新しく造りかえられたのです。 不安と憂いは、それはそれとして心に刻まれていますが、 大きな喜びが弟子たちの心にあふれていったのです。

私はこの部分を読みながら、 クリスマスの物語を読んでいるような思いになりました。

2:8-20 羊飼いたちが野原で夜、羊の群れを守っていたとき、 突然、天使たちの御つげを聞き、で幼子イエスの誕生を知ります。 急いで羊飼いたちはベツレヘムの聖家族のいた馬小屋に向かい、幼子主イエスに会います。 彼らは救い主の誕生を心から喜び、神をあがめ、賛美して野原に戻った。

別に彼らの状況がよくなったわけではありません。 あいかわらず強欲な支配者が重なり合って民衆を搾取しています。 彼らが社会的に楽になったわけではありません。 でも昨日まで、彼らの生活に感謝や喜びや、賛美はなかったのですが、 神のはかりしれない視線が注がれ、その神はユダヤの王や、 ローマの皇帝よりはるかに強い力を持って彼らを祝福してくださることを、 彼らを頬って置かないことを実感できたのです。

弟子達も今後何がおこるかわからない状況でした。 主イエスが処刑されたのは、それは冤罪とはいえ政治的、 社会的理由をつけてのことです。 迫害が及んでこない安全宣言などはあるはずもないのです。 でも不安は不安として、彼らは非常な喜びにひたることができたからです。

キリスト教信仰にはそうした側面が確かにあります。 キリストを主と仰ぐことによって、信仰なしには不安が人を圧倒するのに、 そこに人間の力を越える平安が与えられるのです。

数年前、ある女性を見舞うために阿佐が谷の病院を訪ねました。 その方とは長い長いかかわりで、 大変優秀な方ですが車椅子の生活をなさっている方です。 前の週にから、その方が大腸がんの手術を受けたということでしたのでお訪ねしますと、 じつは肝臓にも転移があるとのことで 家ではこの方の二人のお姉さまが彼女の世話をしてきたのですが、 お一人は確か若いころキャビンアテンダントをしておられた方でした。 けれどご高齢になりお一人はアルツハイマー、もう一人は脳梗塞で、 これから彼女が退院して、 自分が一家の介護のことに手を尽くさなければならないと言うことでした。 このとても耐えがたい困難に直面しているこの方は、 あくまで穏やかで、頬笑みにあふれ、 所属する教会の方々に深い思いを持っておられるようでした。

人にもよるし場合にもよるでしょう。 しかし本気に神に頼るときに、神は私たちの祈りを聞かれる方です。24章45節

弟子たちは主イエスの弟子として、落伍者です。 失敗し、エルサレム中の笑いものになった。 でもそんな状況におかれたらむしろ誰でもそうせざるを得ないかもしれない。 主イエスが復活して、弟子たちのだらしなさを追及する場面は、 いっさいありません。ご自分が復活されることによって、 主イエスは弟子達を復活させることにすべてを注ぎ込んでいるようです。

自分の弱さや罪にいつまでも圧倒される必要はないのです。 主イエスが行われたのは <彼らの心の目を開いて>です。

過去を振り向いて、 失敗や過ち、恥じや心の傷を持たない人はだれもいないと思います。 人それぞれにやり直せるものならやり直したいと思う思いはあるのではないでしょうか。

30,−32節で、主イエスはエマオに行く旅人と共に食事をし、 「心の目」を開かれました。 すると新しい世界が開けたのです。 主イエスはイエスと共に歩もうとする人の心の目を開き、 心そのものを変えて新しい人生に踏み出させる刀のです。

今の日本も、そこに住む私たちも、様々な困難に直面させられます。 まさに新型コロナ感染症終息はその中でも大きな課題です。 しかし主イエスへの心の目だけはしっかり見開いて、 イエスと共に歩むものでありたいと思うのです。信仰の歩みも一歩前進しましょう。

(2021年04月11日 礼拝メッセージ)


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