奇蹟の主キリスト マルコによる福音書 6:45-52

私たちは祈るとき、目を閉じます。 目を閉じたほうが祈りの言葉は出てきやすい。 目を開けていると主イエスが見えにくい・・・ イエスキリストは肉眼では見えないのです。 そうすることでどんな時でも主イエスは私と共にいて下さるを信じられるようになるのです。 どんな時でもイエスキリストは私と共にいてくださる方だ・・・ 信仰生活とは、そう信じて生きる生活ということができると思います。

そう信じられないと、 夜明け前のガリラヤ湖を歩いて近づかれた主イエスを弟子たちが幽霊だと見間違えたように、 福音書に書かれた奇跡は、人の心を迷わす魔術亀井信としか受け止められないに違いないのです。 というのはこの出来事は主イエスが5つのパンと2匹のさかなで5千人の人々を養われたという パンの奇跡に引き続いて起こった出来ごとですから、 パラグラフは52節 <弟子たちは> とは書いてありませんが、弟子たちはパンの出来事を理解せず、 弟子たちは心が鈍くなっていたからだと書かれています。

人が精いっぱい生き、精一杯語ってそれでも理解してもらえない、 という出来事は時に起こります。 当然のように心が通じている親子や夫婦の間でさえそうした気持ちや 考え方のずれが生じるということもあります。 「こんなにおなたのためを思って、犠牲を払って尽くしに尽くしたのになぜわかってくれないの!」 ということだってあり得ます。 しかも関係が近ければ近いほど心の打撃は大きいのです。

人と人が関わり合う人間関係において、 分かり合えないという困難さは相手方の問題であるとともに自分自身も、 自分の立場からしか相手を見ようとしないことも一つの原因でもあります。 弟子たちにとっても、われわれにしても、 イエスキリストを正しく理解することは途方もなく難しいことだったに違いありません。

主イエスと3年間寝食を共にしつつ弟子として訓練を受けた弟子たちですら、 主イエスを理解するどころか、いざ主イエスが十字架にかからんとしたときには 12人の男性の弟子たちは蜘蛛の子を散らしたようにばらばらとなって主イエスを裏切ってしまいました。

まして一般の群衆が主イエスを理解できないで、 まったく見当違いの期待と願望を寄せてイエスの前に殺到したのです。 ヨハネ福音書には(6:15)主イエスを王にしようと願ったのです。 当時ユダヤ人はひどい貧困と政治的抑圧の下にうめいていました。 飢えや社会的抑圧が一つの不幸の原因であることはそのとおりです。 ただ一つには分け合えば満ち足りているのに人類は、つよいものは多く奪い、 弱いものはわずかしか手に取れない。 そこで生み出された富の偏在が支配と隷属の関係を造り出すのです。 欲望が不平等と飢えを造り出すのです。 パンの問題は政治や経済の問題ですが根源的には人々が主イエスは誰てあり、 主イエスを前にしてどう生きるべきかがわかっていないところから行き着くのです。

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて船に乗せ、 その間に群衆を解散させられた。 その間人々はヨハネ福音書によると主イエスを王に持ち上げようとしてもいた。 時の流れというものは或るとき普通の人を英雄に押し上げます。 ヒトラーも、ムソリーニもそうして集団心理操作で群衆にあげられたのでした。 主イエスはそのような群集心理を一掃して群衆を解散させ、 弟子たちを小舟に乗せて船出させたのです。

弟子たちはガリラヤ湖に船出しました。 主イエスは陸地におられ、47節では <夕方になると、船は湖の真ん中に出ていたが弟子たちは漕ぎ悩んでいた。> とあります。 そこで夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行きそばを通り過ぎようとした。

長年、漁を生業としていた男たちが夜を徹して船を操っているのに 船を逆風に妨げられています。 神にも仏にも見捨てられたような不安に投げ出されていた弟子たち。 でも主イエスだけは夫気も目を離さない。 遠くから絶えず見守っていてくださる。 そして荒波に難儀している弟子たちのところにやってきてくださる。
ヨハネ14:18 私は、あなた方をみなしごにしておかない。あなた方のところに戻ってくる。

ところがあろうことに弟子たちは近づかれた主イエスが誰であるかに 気づかなかったのです。私たちも時に主が私たちのそばにおいで下さることに気づかない。 48節後半、49節 主イエスがそばを通り過ぎようとした。幽霊と思い、大声で叫んだ。

こんな場所に主イエスがお出でになるはずはない。 自分の考えに固執します。ここに主はお出でになるはずはない…とても確信犯的です。 ファリサイ派の人々はイエスを否定することにおいては確信がありました。 弟子たちは暗い海でここに主イエスが来られるわけもなしとイエスを否定することにおいては 疑いも持ちませんでした。あらためて信仰に立ちましょう。

(2021年02月14日 礼拝メッセージ)


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