キリストは見捨てない マタイによる福音書 15:21-31

福音書を読んでいて不思議に惹かれるというか妙に胸惹かれる出来事があります。 今日のテキストも間違いなくそうした出来事の一つと言えるでしょう。

というのは 「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。 すると、この地に生まれたカナンの女が出てきた・・・。」 と述べられます。 場所について明らかにこだわった描写です。 マルコ福音書では、シリヤ・フェニキアと呼ばれています。 このあたりはユダヤ・エルサレムからするとかなり北、遠くになります。 ティルスとシドンの地というだけでそこはユダヤではない場所。 異郷の地というイメージがわいてくる。そういう場所です。 ティルスはそこの地中海に面する重要な港町です。

21節に主イエスは 「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。」 と書かれています。 じつは主イエスはそれまで一緒に行動していたユダヤ人たちと分かれて、 ガリラヤからば非ユダヤ的な、異教の地であるティルスとシドンの地方に来たのです。 15章の全般では主イエスはエルサレムから来たファリサイ派と律法学者との間に激しい論争をして <6b-16>「あなたがたはまだ悟らないのか」 とまで語っているのです。

そこにこの女性が来ました。マルコ福音書には女はギリシャ人でと語られています。 ギリシャ人という意味はギリシャ語を話すという意味のようです。 ギリシャ語は当時は広く使われていた言葉で、聖書もギリシャ語で書かれました。 いわば現代の英語のような意味合。 いずれここでは言葉も文化も違う、むろん宗教もユダヤ教ではない異教。

一人の女性がってやってきたのです。(22)幼い娘が何らかの心の病に取りつかれて いたのです。この女性とのごく短い会話のやり取りを通して主イエスはこう言われたのです。
28節「なんと立派な−大きな、信仰をもっている女性。願い通りに回復するように。」

この<立派な>と訳されている言葉はむしろ大きな <メガ> という言葉、メガトンとかメガロポリス巨大都市という時に使われる言葉です。 主イエスの弟子たちは繰り返し信仰の薄いものと主イエスからしばしば面罵されています。 つまり小さな信仰の者と叱責されました。このすぐあと17:20節でも又言われます。 「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もしからし種一粒ほどの信仰があれば、 この山に向かって『ここからあそこに移れ』と命じても,そのとおりになる。」

当初主イエスの言葉は自分たちのことを知らない ティルスとシドンの地方に来たのです。 ここでは何の活動もせず、疲れを癒していた。 女性はイエスの前にひれ伏して 「主よ、どうかお助けください。」 と懇願したのです。そしてそれに対する主イエスの答えは
24節「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」
26節「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない。」
でした。

自分の務めはあなたのような異邦人にではなく、 まず神に選ばれた民、イスラエルの民、ユダヤ人に食べさせることだ。 そのため私は全力を注いでいる。 今はあなたのような異邦人に力を割くときではない。 自分が与えようとする神の祝福はユダヤ人が受けるべきもので、 ユダヤ人ではないあなたに注ぐつもりはない。」・・・

主イエスは助けることを断ったのでしょうか。 イエス・キリストとはこいう人だったのだろうか? ではなかったか。 ユダヤ人・異邦人の区別をする方ではなかったはずだ。 むしろそうした差別を捨てておられた方ではなかったか。 主イエスにはもともと、救われるべき人を 国境や国籍で分断・線引するという考えなどありません。

ところがこの言葉を聞いたこの女性の反応は、じつはとても気品があります。 彼女は、イエスが宗教家であるなら、せめて慰め・励ましの言葉を暮れてもよいではないかと、 ごねたり、すねたりする代わりに、こう言います
「主よ、ごもっともです。しかし子犬も主人の食卓から落ちるパンくずは戴くのです。」

まず<主よ>といいました。 主イエスの言葉を受け入れるばかりでなく、 ティルスとシドン在住の異邦人でありながら主イエスを主と告白するのです。 確かに人は神の恵みを当然のように受ける資格はありません。 まことの神を信じる信仰に生き続けてきた人生を歩んできたものではありません。 自分には資格も権利もありません。 イスラエルの子供なら食卓につく権利はあるでしょう。 そうでない異邦人の自分たちは、食卓で食べることなど求めません。 でもその食卓の下に子犬がいれば、子供が落とす食べ物は、子犬が食べることができるでしょう。

神の恵みのあまりもの、落とされたものでいいのです。 それが落ちてきたらいただける。

24節のイエスの言葉はこの女性を試して言われた言葉かもしれない。 しかし神の恵みを当然であると感じていたユダヤ人に対する痛烈な批判であることも事実です。 これは異邦の女性だからこそ言える言葉です。 この出来事の直前に主イエスと厳しい論争を繰り返したファリサイ、律法学者たち。 この女性の謙遜な態度にどれほど遠かっただろうか。 自分には資格があるから、権利があるから、神の恵みを受け取るのは当然なのだ・・・ などという態度は神の民の態度などではないのです。 私は恵みを権利などはどこにもありません。 でも主がわたしのほうを向いてくださるのを待つ。 食卓から零れ落ちるものをただ待つ。でも娘が救われるときが来ることを疑わずにまとう。

私たちがこの主イエスの態度に違和感を持つのは、 この女性の信仰の姿勢とは少し違っていたのかもしれない。 主イエスが私たちに親切にしてくださるのは当然である。 主イエスが神の子らしく私たちを救うのは当然で、主イエスがこられたなら、 わたしの役に立ってくださることは当然なのだ・・・ と思っている思いがどこかにあるのかもしれない。

主イエスはじつは、いつでも、誰に対しても変わらない恵みを与えてくださる。

キリストは見捨てやしません。キリストは決して見捨てない。 でも時には神がわたしを見捨てられたかと、自分が感じるときがあるかもしれません。 この女性が、この時、そう感じても少しも不思議はない。 でもそのとき腹を立て、自分の願ったように神はこたえてくれないとタンカを切ったら、 ことは起こらないのです。 そのときこそ信仰のとき。神のときなのです。

(2021年02月07日 礼拝メッセージ)


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