心の目を見開いて マルコによる福音書 8:22-26

<開眼>という言葉があります。目を見開くという意味を超えて、 何かを理解する、真理を悟るという風に使われます。 福音書には癒しの記録が多いのですが、それは信仰の開眼と重なっているからです。 私たちの大半は視覚障害というハンディーを持っているわけではありませんから、 目が見えるということを普通のこと、当然のこととして受け止めています。 ですから病気や事故で目が見えないという状況に出会うと とても耐えられないほどの思いに当然陥ります。 見えなくなるという状況も実は遠いことではないのかもしれません。 イエス様は「今見えるといっている。だからあなたたちの罪は残る。」 イエスは心の目。信仰の目のことを言っているのでしょう。

たった1歳半の病気が原因で見えない、聞こえない、 その結果話せないという三重苦を背負うことになった ヘレンケラーという人がいました。奇跡の人という映画を覚えています。 家族の甘やかす中で半ば野獣のように、食う、暴れることしかしなくなった 少女ヘレンをもてあまし、両親はアニー・サリバンという家庭教師を与えます。 2週間アニー・サリバンは二人だけの生活を両親に求めます。 若く熱心なサリバンを生意気と感ずる家族をまえに、サリバンは苦闘します。

人間としてマナーを持った存在として生きることをサリバンは教えようとします。 ヘレンは抵抗し、暴れます。ヘレンは言葉という世界がわからないのです。 単語は教えられればつづるようになります。けれどそれが何であるのかが分からない。 ヘレンが最初に言葉に開眼したのは水―WATERという言葉です。 期限の2週間が終わる日、アニーサリバンがヘレンを井戸のあるところに連れて行って水を汲みます。 そしてヘレンはサリバンの手にw・a・t・e・rとつづるのです。 ひとたび言葉に開眼したヘレンは次々と言葉単語に綴りを求めます。 その中でヘレンが何よりも求めたのは先生―TEACHERという言葉でした。 アニーサリバンはTEACHERという文字に続けて 「私はヘレンを愛しています。いつまでも、いつまでも、ずうっと」 とつづるなか幕となります。

今日のみ言葉の中で、 ベトサイダの人々は一人の盲人をイエスのもとに連れてきたのです。 ですが主イエスは連れてきた人々の前で奇蹟は行わなかったのです。 人々はまるでマジックを見るようにキリストに奇跡を行わせたかったのでしょう。 他人をキリストの前に立たせて、奇跡のショウを見たがるのです。 でも自分自身はキリストの前に立とうとはしません。 8:11 でファリサイ派の人々は印を求めたしるしとは キリストにおいては奇跡と取れます。 単なる印を求める人々の前で、キリストは印を行いません。

盲人はだしに使われた。 でも主イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行ったのです。 <お前はもう帰れ> というのではなく、 <村の外で待て> というのでもありませんでした。 この人は目は見えなかったけれど、歩けないわけではありません。 でも主イエス自身が手を取って導かれた。そうしてやがて癒しが始まります。 両眼に主イエスの唾がつけられ、主の両手が添えられます。

「何が見えるか。」

「人が見えます。木のようですが、歩いているのがわかります。」

この人は生まれてこの方何年になるのでしょう。 見えることを焦がれるほど願ったでしょう。 でも見えるようになるとは思いもしなかった人生です。 でもいったい何を見るためでしょう。 話に聞く美しい夕焼けでしょうか。 野の草花のかぐわしい姿でしょうか。

ヘレンケラーはあなたは何を見てきましたかと人々に尋ねたそうです。 私たちは何を見、何を聞いて、それを心に刻んで毎日を過ごしているのでしょう。 ヘレンケラーは水によって言葉に開眼しましたが、 そこで語りたかったのは自分をただ甘やかして野獣のように、 ペットのように扱う親でなく、厳しくも自分を愛し、 言葉を伝えようと愛の限りを尽くすアニーサリバンという先生 ―TEACHERという言葉を求めたのです。

盲人が見たのは人でした。はじめは木のように見えていたが、 徐々にはっきりとそれが歩く人であることが見えてきた。 この描き方はとても生々しく、最初これを読んだ時から、 これはやはりこの人の感じたとおりの出来事だと思ったものです。 人とはだれでしょう。ベトサイダのこの人を主イエスの奇蹟を行うきっかけというか、 だしに使おうとした人々ではなかった。 ここは村の外。人影もまばらな場所です。 そこにいたのは主イエスとその弟子たちだけだったでしょう。

25節 「イエスがもう一度両手をその目に当てられると、 良く見えて癒されなんでもはっきりと見えるようになった。」 この人は開眼した。 キリストによる開眼という出来事が起こる。 主に従い歩む群れ―教会に加えられて歩むと、主による出来事が起こる。 主イエスはこの人に 「この村に入ってはいけない。」 といわれます。 村には盲人だった人、キリストはこの盲人の目を開眼させた。この盲人を 主のもとに連れてきた人々がいます。自分は傍観者でいながら、 目に見える印を見ようとする人々の見世物にしようとする人々がいます。

そこにいたのは主イエスと弟子たち。 それはみすぼらしい姿の風采の上がらない、 しかもしばしば失敗をする数も少数でしかない人々でした。 表面に見える教会とはそうしたものでしょう。 ですがもし私たちが神に作られたもので、一度は罪に沈んでいたものだが、 神に見いだされて、救われたものであるなら、なお神への信仰を告白しつつ、 赦しあいに生きることができるそうした群れであるなら、 神を信じ、キリストに向かって歩む群れといえます。 私たちの行く先はこの世の見えや喝采などではなく、キリストのもとでしかありません。

弟子たちは決して立派でも優れてもいなかった。みすぼらしかった。 十字架を目の前にして権力闘争、序列争いをしていたのでした。 でもひたすら主に従う中に弟子として開眼させた。弟子たちもそうだった。 キリストの前を歩み続けると、キリストは変えてくださるのです。

(2021年01月31日 礼拝メッセージ)


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