イエスの受洗 マルコによる福音書 1:1-11

今日の聖書日課は教会で伝統的に語られてきたどおりの 洗礼者ヨハネの姿です。6節)極限まで禁欲に生き、 節制に節制を重ねラクダの毛衣を身に着け、 人々には自分自身の罪深さを自覚させ、 そのヨハネの模範に生きる者だけが救われる。 ・・・・そうしたイメージを洗礼者ヨハネの運動にふかしてきたきらいがあります。 けれどマルコ福音書を読み直してみれば 1:1 <神の子イエス・キリストの福音の初め。> とあります。福音はよき知らせです。 それを聴くだけで、特に何をしなさいではありません。 洗礼は決断のしるしです。 福音を聞いて、洗礼を受けるだけで人生が変わるのです。

この部分には旧約聖書が引用されています。

@「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし・・・」2節
出エジプト23:20
これはイスラエル民族がエジプトを奇跡のように脱出できた。 しかし彼らがさ迷うのは食べ物も、水も全くない荒れ野―砂漠です。 行く先は約束の地・乳と密の流れる地です。でもそれは遥かかなたです。 けれどそこに神の声が聞こえてきた。 わたしがみ使いを送ってあなた方を約束の地に導く。 神の民はその導きに従えば約束の地に到達するのです。

A 「あなたの道を準備させよう」2、b
実はこれは旧約聖書の終わりに近いマラキ書 3:1 「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」
いよいよ神がその姿を現す。 その前にその道をつくる使者を送るというのです。

B そして3節「荒れ野で叫ぶ声がする。主の道を整え, その道筋を真っすぐにせよ」
これは旧約聖書の真ん中にあるイザヤ書40章3節の言葉です。 このイザヤ書40章は第2イザヤと呼ばれる部分の最初の言葉です。 これはイスラエルの歴史の中で最も悲惨な時代であった バビロニヤ捕囚の時代に書かれた部分です。 荒れ野とはバビロニヤの地のことであり、 また故郷イスラエルと自分たちを隔てる単に距離ではなく、 帰ろうとしても帰ることを許さない政治的、歴史的距離、 たとえてみれば現在北朝鮮により拉致された人々が置かれている 帰国を許さない政治的距離のような距離のことです。 この荒野には道がないのです。 その荒野に道をつけ、神がイスラエルに帰られる道を備えようというのです。 いよいよ自由解放の日が到来するという希望の歌が鳴り響くのです。

こうして出エジプト記、イザヤ書、そしてマラキ書が引用され、 旧約聖書が一貫して語ってきた希望と救いの言葉が今成就する。 どう実現するのか、神がその身を表されるのです。 神が私たちのところに来られるのです。 洗礼者ヨハネはその先駆け―forerunnerです。 ヨハネが現れたのはヨルダン川の河畔でしたがそこは荒野でした。 (列王記上19:9-18)

さてこの洗礼者ヨハネの洗礼運動とは普通の人々が日常の歩みのうえで 時に感情が高ぶったり怒ったり、憎しみに沈んだり つまり人は罪を犯すのです。 エフェソ4:25−27「日が暮れるまで怒ったままでいてはならない」 これはユダヤでは日暮れとともに新しい一日が来ると考えられていました。 だから怒りを翌日に繰り越してはならないという意味なのです。 怒りを翌日に持ち越すとそれは罪につながるのだ…ということです。 ただこう言う言葉をパウロが残したのは人間とはそうした側面がある ということでもあります。

しかしそうした人間の世界に神は主イエスを送られました。 嬰児のイエスとして、少年のイエスとして そしてやがて長じては大工・労働者のイエスとしてこの世を送られました。 主イエスはわたしたちが味わう喜び、楽しみ、苦しみ、 悲しみも自分のこととしてご経験された。 その上罪の許しを得る悔い改めの洗礼もあえてお受けになった。 神はそうして私たちに働きかけられ、わたしたちの世界の眞ただなかに飛び込んでこられた。 神はそこまで私たちの世界にに歩み寄り、寄り添い、神の限りを尽くして なそうとされたのはわたしたちを愛そうとされたのです。 主イエスが洗礼を受けられて天から声が聞こえてきました。 それは「あなたは私の愛する子、わたしの心にかなうもの」という言葉でした。

以前の新聞の投稿で、一人娘を嫁に出した母親の文章がありました。 夫婦は大切な一人娘の縁談に喜びはしましたが耐え難いさみしさに襲われ、 近づく結婚式を前に内心喜びながらも悲しい思いも交錯していたのです。 結婚式は教会で行われました。お嬢さんはクリスチャンでした。 やがて祝辞が続き、友人代表のスピーチのあたりから お母さんは激しい悲しみが込み上げてきたのです。 自分の命以上に大切だと思っていた娘が今去ってゆく。 娘の心にはもう自分たちのことよりあの男性のことしかない。 大人げないといえばその通りだが親としてはつらい瞬間だったそうです。

ですがその時場内がぱっと暗くなって花束をもった花嫁、 花婿にスポットが当たり、花嫁の録音したテープが流され、 まず「今まで本当にありがとうございました。という両親への感謝から始まり、 こうして巣だってゆく自分たちへの母親の悲しみに 花嫁が頬を濡らす涙を見てやっと心を決めることができたというのです。 これからこそ本当にいい母親になろうと心に決めたというのです。

実はその投稿者のお母さんは、結婚には何度も反対したかった。 できれば婿入りしてくれる男性だって探せるのにとも思った。 でも娘も母親のそうした思いは確かに受け止めてくれたと思ったのです。 母は娘の言葉を信じて、神さまの歩み寄りにも似た姿に変わっていったようです。

神さまは 「あなたは私の愛する子。」 と人の痛みや苦しみを悲しみのすべてを引き受けてくださる御子を 私たちの側に送ってくださいました。 主イエスはわたしたちの側に送られたのです。 それは十字架の死をまで受け入れる愛でした。

主イエスを私の愛する子と呼びかけて 神はわたしたち一人ひとりに向かってもわたしの愛する子と呼んでくださるのです。

(2021年01月10日 礼拝メッセージ)


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