よろこびは尽きない ヨハネによる福音書 2:1-12

じつは昨年、病院で医療福祉のソーシャルワーカーを務める 私どもの長男が結婚したのです。 結婚に、早いも遅いもないとは思いますが、彼は46歳、結婚式をと願っていましたが このコロナ騒ぎであることと、相手の女性も看護婦さんで医療関係者同士で 式はいつになるかわかりません。 私たちは彼は結婚の気持ちはないのかしらとも思っていました。 よくぞ片付けの不得手なこの子を、生涯の伴侶と思い定めてくれる 心優しい女性が現れてくださって、親としては合掌する (両手を合わせて) 感謝したのです。 その上、よき伴侶が与えられたことで息子は人が変わったように、 見違えるほど快活で親も含めて良くしゃべり、 思いやりにあふれ10月から月定献金を始めてくれました。

実は今日の聖書の個所も、結婚式の場面です。 場所はガリラヤのカナ。いちおう聖書地図には載っていますが、 定かな場所かどうかは分らないと言うことだそうです。 ヨハネ福音書によれば<2:6>イエスは2−3メトレテス入りの水がめ6個のただの水を、 上質なワインに変えたというのです。 後ろの度量衡(単位)のところを見ると、1メトレテスとは39リットルとあります。 2メトレテスなら78リットル。3メトレテスなら127リットル。 それが6樽あったというのです。 2メトレテスなら78×6=468リットル 3メトレテスなら127×6=762リットル 普通のワインのビンに換算するとほぼ本、1016本。 結婚式の最中にワインがなくなった。客を迎えた新郎新婦や、 結婚式の準備をする側の人々はなんと配慮のできないものと非難されるところだった。 主イエスの母が何とかしてあげなさいとイエスに言い、 僕たちに甕に水を入れるように命じる。 結婚式の世話役は、ワインは飲みつくされたはずだけれども、 甕に入っていた水が、極上のワインになっていたことを知った。

でその奇蹟をキッチンの側から見た人々 −つまり甕に必死になって水を汲み入れた下働きのひとびと、 料理人、世話役は水がワインになったことを知った。 しかし、その奇蹟の結果、だれが信じたかというと弟子たちがイエスを信じた。(11節) マリアはこの時点では、イエスが誰であるかをまだ判断しかねていたかもしれません。 特別な息子だとは思っていたでしょうが、十分に主イエスを信頼していたというより、 どこか世間を騒がす存在という思いがまだあったと思います。 でも、こうしたときに何かをやってくれると思っていたから、主イエスの声をかけた。 でもマリアが踏み込んで信じたとは書いてありません。 世話役がイエスを信じても不思議はない。 さらにはこの途方もない量の水をかめに水をくんだ いわば下働きの人たちがイエスを信じたと書かれてもいいではないか。 新郎新婦がイエスを信じたでも良かった。でも信じたのは弟子達だった。

弟子たちはこの披露宴で何をしていたか。 祝いの席を楽しんでいた。それだけ。大いに飲み、食べていた。 この披露宴の主人公である新郎新婦、その親はことによると、 貧しかったかもしれない。 十分な酒を用意できなかった。だから主イエスが途方もないワインを、 しかも用意したワインよりはるかに上質なワインを作り出した。

この披露宴で、その奇蹟に立ち会った人がイエスを信じたのでなく、 ただ飲み食いしていた弟子たちだった。 たぶん主イエスから事の次第を聞いた。そして信じた。 信じる人だからこそ、イエスの弟子になった。 誰でも主イエスを信じる人になれる。 でも誰でも主イエスを信じるわけではない。

わたしたちは主イエスにお出ましを請うのは、 苦しいとき、悲しいとき、つらいとき、 困ったときでしかないと考えるフシがある。 しかし主イエスは人生の喜びの時が大好きです。 主イエスは金持ちとも、貧しい人とも、共に食し、共に杯を交わしました。 でも喜びの最中に、ぶどう酒が尽きる時があります。 人生はとつぜん困ったことが起こるのです。 健康が損なわれる時がある。人間関係にこちらは何の責任もなく、 関係にひびわれすることもあります。

突然人生に都合の良くないことが起こると、 ひとにもよりますけれど、これはだれだれが悪いからと、 犯人探しをする人がいる。 数年前に、自分の家の犬が保健所に連れて行かれたのは、 厚生労働省の官僚が悪いからといって、 次官経験者を連続して刺し殺した人がいました。 とんでもない思い違いです。どこからこの人の挫折が始まったのかと思いますが、 ささやかなつまずきの中で人は謙遜にさせられるのです。 しかし小さなこころの傷を負ったとき、その傷にどう対処するかは、 まさに人が試される大切なときです。 人生は喜びと同時に、ほころびが襲うところです。 (綻びー縫い目が解け手、穴が開く) けれどそこにこそ神がいてくださるところです。

けれど主イエスはすぐに母の求めには応じません。 「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 冷たい言葉です。そこで言う私のときとはいつか。主イエスは自ら言います。 12:23「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく、 一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが死ねば多くのみを結ぶ。」 主イエスはやがてその日 <十字架にかかるとき> が来ることを主イエスはここで語ったのです。 そういう方であることをこの奇蹟を通し、そしてこの言葉を通して主イエスは語られた。

母マリアは感じ取る事が出来た。 ですから召使達にこの人が言いつけたらそのとおりにしなさい、と命じたのです。 宴会のために人々がからだを清めるため、調理のため、水はかなり使っていた。 イエスはこれをもう一度井戸にいって甕に水をいっぱいにするように頼むのです。 重労働です。そしてただそれを宴席に運ぶように命じます。 世話役が味見をしてみるとはるかにいいワインではないか。 皆が酔っ払った頃さらに良いぶどう酒を出すとはなかなかたいしたもんだ。 イエスは一見冷たい態度をマリアに示しましたが、 母が期待するよりもはるかに良いもてなしをしてくださった。 それが最初の奇蹟でした。

イエスはここで神の存在することの大切を表わしました。 結婚生活にも、結婚式にも、 それだけでなく人生のすべてのところで神のいます大切さを人々に示した。 日本の殺人事件の半数は家庭・家族間が半分だそうです。 それほど家庭生活は破綻しやすい。 人間は自分の人生を完璧に生きることはじつは難しい。 いやできるはずもないものなのです。 なぜかというと、おごり高ぶるから。謙遜になりきれないからです。 おごり高ぶる罪の大水が押し寄せるとき、人は人が代わる。

<たとえ明日世界が滅びようとも、私は今日りんごの木を植えよう> マルチン・ルターの言葉だそうです。 見方によれば、 日本も世界も、疫病や環境破壊や経済や政治のあり方からも破局を前にしている、 と言うことを語る人がいます。 しかし人生もいつか終わるし、人間の文明も終わりに向かっていることは、 ことの前提です。 そうであれば今日わたしたちが どうよき人生を生きるのかこそ、今日が誰かを愛し、 よきコトをいかに記して、歩むことこそ、大切です。

今日は結果を、神に任せて、誰かのために水をくむ。 カナではその労があったからこそ、水は最上のぶどう酒に変わった。 イエスの言葉を聞き続ける。 雨が降っても、寒くても、そうしていき続ける。 仕事をして、イエスの言葉を聞き続ける1年でありますよう。

(2021年01月03日 礼拝メッセージ)


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