信仰に踏みとどまる 創世記12:1-8

イエスキリストの語られた有名な言葉に <あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出て行って実を結び、 その実が残るようにと・・・私があなた方を任命した。> ヨハネ15:16

牧師として日々を過ごしていると様々な人々に出会います。 それも、時には人生がかなり問題を抱えて最後の救いを求めて教会のドアをたたいてくる人もいます。 アルコール依存に深く嵌(はま)って、そこから抜け出せなくなって、 家族とも親族とも関係絶縁を迫られて。 生活保護費もすべて酒に消えてしまうという、以前は、京都の料亭で働いていた板前さんとか。

外見からすると見るからに品行方正で、現にまじめな紳士。 この方が深夜、運転中、あるところで、急に飛び出してきた男性を車ではねてしまった。 運転していたこの方は飲酒運転ではなく、 状況からすると被害者による自殺であったかもしれない、飛び出しだったのです。 けれど一瞬のパニックから、彼は現場から立ち去ってしまったのです。 被害者はホームレスの方らしく、身分を証明する何も持っておらず名前も不明だったのです。 けれど警察の捜査の結果、運転をしていたその方は結局逮捕され、 短い刑務所生活をしたのです。そのことで本人はとても苦しみました。 そして妻と娘さんも、なぜ夫がそんな状況を招いてしまったか、悩みに悩んだのです。 ところがこの一家の皆さんは クリスマス、イースターに配布されるた由木教会の教会案内を何年分も持っていたのです。 そして礼拝にはほとんど来られませんでしたが、 奥様がウイークデーに行われた私の入門講座に出席し、 ときに夫やお嬢さんも加わることがありました。 やがてぷっつりと音信が途絶えて、いずれかへ引越しをなさったようでした。 何年かして、この一家があるところの小さな教会で、一家全員で活躍していると聞きました。 キリストの福音を通して新しい歩みを始められたのでした。 ・・・・それにしても一瞬の出来事が一家の平和を破壊しかけたのです。 ひき逃げはたしかに犯罪ですが、 一瞬のパニックで自分を見失うということはあってはならないけれど、 時折あることです。それは誰でもわかっています。 これを起こしたとき、自分でも知らない自分が、ひょいと身をもたげたということかもしれない。 それでもこの出来事は 教会を通してそれだけでは決して終わらない可能性をもっていることを はっきり物語っています。

旧約聖書の信仰の父アブラハムは創世記の12章で神の呼びかけにこたえて、 75歳にして信仰によって出で立ったのです。 住み慣れた家を離れ、親族と別れ、まだ知らされもしない神の指し示す地にむかって出立しました。 そしてカナンの地(今でいうパレスチナ)に着いたのです。 アブラハムは信仰の父、信仰の人とよばれた。信仰にとどまる戦いをしたからです。 それは言い換えると、信仰に生きようとするからこそ沸き上がる葛藤、 神に従おう賭すれども従い得ないおもい、神の導きから遠のくことがあった。 しかしそれでも心に傷を負いながら、信仰に帰ってきた。だから信仰の父でした。

12章においてアブラハムは神の促しに励まされてはるかな旅に出立し、 そして約束の地に到着します。神に従えば何がしかの見返りがあると考えます。 でもそれは信仰的な意味あい、精神的な価値観の問題であって、 自分にとって都合よく人生が展開することではありません。 バビロニヤからカナンへのたび。今で言えばバクダッドから、パレスチナへの徒歩のたび。 それも行く先も知らされぬ旅でした。 それほどの勇気ある決断と犠牲には見返りがあってもよさそうなものです。 ところがアブラハムが家をすて、親族を捨て、 とてつもない距離を超えて到達した場所に起こったのは飢饉でした。 創世記はまさにアブラハムの選びをもって神の救済の歴史が始まるのです。 そして彼が選ばれ、約束の地に着いたのです。 しかし、アブラハムはさっそくそこから逃げ出して、エジプトに向かいます。 そしてエジプト入国を前に、アブラハムはさらに言います。  12:10-13,14-20

『あなたが美しいのを、私はよく知っている。 エジプト人があなたを見たら、 「この女はあの男の妻だ。」 と言って、私を殺し、あなたを生かしておくに違いない。 どうか、私の妹だと言ってください。そうすれば、私はあなたのゆえに幸いになり、 あなたのおかげで命も助かるだろう。』
たしかによく見るとアブラハムの妻サラは、アブラハムと共通の父親テラの娘です。 4千年前のオリエントの人です。文化や習慣の違いは私たちの想像を越えます。 しかし、彼女を妹と称してエジプト王のハーレムに入れて、 アブラハムは多くの羊と牛の群れとロバ、男女の奴隷、雌ロバ、らくだを手に入れます。 しかしやがてファラオはサラがアブラハムの妻であることを知って、 サラを返して、エジプトから去らせるのです。(12:17)

結果として多くのものを手に入れはしたが、苦々しい経験です。 そして手に入れた物の多さは、ある意味ではサラが受けようとした屈辱の大きさでもあった。 こうした取り扱いを受けたこの出来事があって、13章の事件に立ち至ります。 有り余るものにかこまれて、 アブラハムは行ってしまった失敗の大きさと挫折感に打ちのめされ、 心傷ついた妻とともに、約束の地に戻ったのです。

13:2 「アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。」
ここを読みながら複雑な思いがします。 この財産は使命感を振り捨てることによって手に入れた財産です。 いかがわしい、詐欺的な画策で手に入れた財産。 そのお金は妻を売りに出して手に入れようとした金に等しい。 そんなものを全部エジプトにおいて神の約束の地に戻ってほしかった。 しかし、アブラハムは、そうはしなかった。でも、アブラハムは最初の場所。 西にべテル、東にアイが見える約束の地の第一歩を記したそのところで祭壇を築いて、 礼拝をしたのです。 それはつまり神の召命、神の呼びかけにこたえようとしたその原点に戻ったと言うことです。 たくさんの財産がありましたが、 それは現在の生活がなんとか保たれるようにという祈りではなかった。 エジプトに出発したときは、神を第二、第三のものにしても生きられるようにと言うことでした。 でも今は違いました。いわばレールのポイントを切り替えたのです。

礼拝に心を傾けることはアブラハムだけでなく、 われわれにとってもきわめて大切なことです。 人の心は迷い、過ちを犯しうるものです。 冒頭に車の事故の話をしました。 お酒を飲んで運転していたでもない、あるいは自殺だったかもしれない、 ほとんど運転者には不可抗力の事故。 それでも、その方は、その場所から去ってしまった。 それのみが取り返しのつかない出来事でした。 しかし人間にはそうした行為がありうるのだと言うことでしょう。 アブラハムが妻を妹と称して、ファラオに差し出す。 そんなあってはならないことが時として起こる。 だからこそ、私は私であるためには信仰に生きるべきなのです。 アブラハムは失敗から多くのことを学び、再出発したのです。

ここにロトという人物が登場します。 アブラハムの弟ハランの子。甥に当たります。 ロトはメソポタミヤからアブラハムと行動を共にしています。 おかげでロトも多くの羊、牛の群れを持ち、たくさんの天幕を持っていた。 アブラハムのおこぼれで金持ちになった人です。 アブラハムの集団も多くの家畜をもち、ロトの集団も多くの家畜を持っていたので、 その土地は彼らがいっしょに住むことができなくなった。 財産はこころのゆとりを得るためのものです。 心豊かに、お互いが喜んで共に生きるために生かすものでしょう。

でもあまりに多い財産は、共に生きることを不可能にするばかりか、 争いを生み出します。分裂と戦いをもたらすのです。

ここでアブラハムが試されます。そして新たな提案をします。13:8-10

一方には乾燥して干からびたカナンの高地があり、 反対には肥沃で緑滴る豊かなヨルダン川流域のソドムとゴモラの町々がありました。 そこには人の心をひきつける歓楽もありました。 10節

アブラハムはロトに選択権を与えました。 日本人なら、お世話になった叔父さんに対して、選択権をそのように託されたら、 良いほうをアブラハムに残して、自分はみすぼらしいほうを取るだろうと思います。 しかしロトは現実主義者でした。 ロトは豊で、また快楽も味わえるだろうヨルダン川流域のほうを選びます。 ロトは現実主義者。 義理、人情よりも、金、物、優先です。 叔父であるアブラハムの提案は、絶好のチャンスと受け止めました。 アブラハムはロトのそうした性格がわかっていなかったのでしょうか。 そんなはずはないでしょう。日常の小さな行動にそれは正直に現れていたでしょう。 それなら教育的にこここそ、アブラハムは有無を言わさず、よき方をとってもよかった。 でもそうしなかった。じつはその骨肉の争い(親子、兄弟、肉親がいがみ争うことです) を見ていた人々がいました。7節

ここは別にアブラハムの無欲を奨励する教えではありません。 神の言葉を託して世界に祝福の基となるべきアブラハムにとって、 財産のことで兄弟と争う姿は、あってはならないことです。 財産や物質のことで、他人と争い、誰かを傷つけ、誰かに犠牲を負わす。 どんなに美しい信仰の言葉を語ったとしても、その人が金銭や財産のことで、 こだわりを持っていると知られたら、伝道などできないはずです。 アブラハムは全世界の祝福の基として選ばれたのです。 カナン人も、ペリジ人もその一つなのです。 そのためにはどんな犠牲も負う覚悟があったのです。

アブラハムは所有欲から自由にされたのです。 聖霊が下ったペンテコステにおいて教会が生まれました。使徒2:43−47

ロトはここでよき方を選び、アブラハムは残りを取った。 ロトはこのあと何もかもうまくいくはずでした。 ロトが選んだのはヨルダン川流域見渡すかぎり緑におおわれた地ソドムとゴモラでした。 アブラハムは残りを取った。それは同時に、神に選ばれることだったと言えます。 14−17 見たところは乾ききった、何の利益も生み出されないところ。

しかしそここそじつは神の祝福の場所でした。 アブラハムはそこに祭壇を築き、礼拝を捧げ、感謝を捧げます。 ありのままのアブラハムは信仰の父にふさわしいものとはいいがたい部分を含みます。 ありのままの人間だからこそ私たちは学ぶことができる。

神のみ手はメソポタミヤのハランであろうと、 エジプトであろうとヘブロンであろうとアブラハムに伸べられ、 アブラハムはそこで丁寧に祭壇を築きなおして再出発をします。

(2020年11月08日 礼拝メッセージ)


戻る