まことの光 ヨハネの手紙一 2:7-11

基本的に聖書個所は聖書日課に従っているのですが、 多少日課とずれることもありますがご容赦いただきたいと思います。 ト書きのところに <新しい掟> と述べられています。 7-8節に「古い掟」「新しい掟」という言葉が出てきます。 <古い掟> に関しては 「あなた方がはじめから受けていたもの」 とか 「あなた方がすでに聞いたことのあるある言葉」 というように説明されています。 つまりすでに旧約聖書のみ言葉を通して 神の教えとして示されてきたものという意味でしょう。 つまり聴き手であるヨハネの教会の人々にとって すでに旧約聖書のみ言葉を通してそこに新約的なメッセージを読み込んで 神の教えとして受け止めていました。 ヨハネ福音書にしてもヨハネの手紙にしても明確なメッセージがあります。 それは 「神を愛すること」 そして 「隣人を愛すること」 への強いメッセージ性です。

ヨハネは7節では 「わたしがあなた方に書いているのは新しい掟ではなく あなた方がはじめから受けていた古い掟です」と言います。

そして8節ではしかし私は新しい掟として書いています。 ・・・というのです。文章の流れからすると 「あたらしい言葉で言い直すと… 「ひかりのなかにいる」 」 ということではないようですことは新しい教え、 古い教えという言葉に惑わさるのですが 著者のヨハネが読み手に見つめてほしいのは
2章2節 「神の御子が世に遣わされ、この方が 「全世界の罪を償う生け贄としてご自身をささげられた。」 」

何よりも、あの十字架の出来事にあらわされた神の愛を、 より生き生きと、あらわされた神の愛を、 いま・さらにその出来事にもう一度気づき、 もう一度心動かされてほしい。共有したい。

1ヨハネ4:9−10 「神は独り子を世にお遣わしになりました。 その方によって私たちが生きるようになるためです。 ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。」

「私たちが神を愛したのではなく神がわたしたちを愛して私たち の罪を償う生け贄として御子をお遣わしになりました。」 ここに愛があります。 ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。 ここに愛があります。そう述べられて事に目を向け、 そこの立ち返りそこから新しく始める。そこに本当の新しさがあります。

新しいとか古いという言葉にこだわっていると見える世界が見えなくなります。 ヨハネは、愛というこれは新しくもあり、古くもある、 変わることのない、これは神の掟だというのです。 掟ですから、命令よりの強い要求がこの言葉には籠められています。 神と人は愛でつながります。同時に、愛でしか、つながり得ない。 神が愛であるが故のいわば愛の掟を手にしておられるとは、どういうことでしょう。 わたしたちが神を知った。そして心から信じた。それで終わりですか。 信じているが故に、私たちは、この神の恵みに生きようと願うのです。 そう望むと、それらしい生き方を生み出します。そうせざるにはおられないのです。 わたしと神との内面的な、霊的な出会いはあくまで内面的であって 外面とは何の変化もないというわけにはいかない。 神による愛に活きなさいという神の掟・命令は外側にあふれ出てくるのです。 ヨハネ福音書13:34 「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。 わたしがあなたをがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」(196頁)

私たちはキリストにおいて具体的、現実的に深い愛を教えられました。 その愛を受けた者はその愛の実践を求められている

4:20 「目に見える兄弟を愛さないものは、目に見えない神を愛することはできません」

神は神との関係を破って自ら罪の世界に落ちてゆく人間を愛して、 御子イエスキリストを私たちのもとに送ってくださいました。 神にふさわしいものではないものをつくりかえてくださった、 人は暴力や懲罰で代えられないのです。 ただ愛されることによってのみ変えられます。 それもキリストの愛にふさわしいものが愛を受けるのではなく、 キリストの愛を受けた者が、それにふさわしく変えられていくのです。

今日私たちに差し出されているのは、この神の愛に答えることです。 信仰を口にしながら実は私たちは言い訳だらけの人生を生きています。 でも神からの限りない愛に、答えるすべもない私たちです。 言い訳ばかりの人生から一歩抜け出て、それに気づいているなら、 神の愛に生きる自分に変えられることを祈り始めることくらいはできるかもしれない。

具体的はどうすることでしょう。 10節に兄弟を愛することとして述べられています。 兄弟教会員かもしれない。 家族かもしれないかもない友人、隣人様々に関わりあう大切な人です。 9節には 「光の中にいると言いながら兄弟を憎むものは、今なお闇の中にいます。」 これは当時の教会に存在していた人のことが語られていと考えられます。 けれど個別のローカルチャーチではあまりないと思いますが、 組織体としての教団などで人間関係がこじれて、お互い弁護士を立てての訴訟もぶつけ合い、 かつて身近な関係だった人々が、対立しあうというようなことはない話ではないのです。

自分は光の中にいると言いながら実は兄弟を憎んでいる、 つまり許せない。彼は神がイエスキリストにおいて開かれた 新しい愛の世界に生きていないということなのです。 しかし今は 「闇が去って、すでにまことの光が輝いている。」 世界はイエスキリストにおいてまことの愛を知ったのです。 罪や悪や不義が世界の支配者ではなく 愛や許しがイエスキリストを通して私たちに最終的に与えられるのです。

(2020年09月13日 礼拝メッセージ)


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