神に倣う エフェソの信徒への手紙 5:1-6

本日の説教は <神に倣う> です。 説教のタイトルとしても恐れ多い気もありましたがそれ以外にはつけようがなかったのです。

…倣う(ならう)という漢字も少し風変りです。 あまり頻繁に使われる言葉ではありません。 フリガナなしでは読みにくいというという人がいても当然です。 <倣う> という漢字は見たこともなかったという方がいてもむしろ当然です。 学習の習でもなく、馴れ親しむの馴れるでもなく、 ほかにもっとわかりやすいならい方もあるのです。

<この言葉の由来は、どうやら古代の死者の弔いにあって、 強い霊力をもった死者を打って、 死者の霊を刺激してその霊の力を利用して邪悪な霊を追放する儀礼を言う。>
と語源辞典にありました。 今日私たちが出会っているのは、聖書が語る世界なのですが、 ここであなた方は神に倣うものとなりなさいと語られています。 広辞林でこの倣(なら)うという言葉を引いてみると <見たまま、聞いたままに行う> とあります。ですから決められた通りに <神のあるがままの、見たまま・聞いたままの姿生き様を模倣しなさい> エフェソ書の5章では学習の習でもなく、馴れ親しむの馴れるでもなく、 模倣の倣(ほう)というこの文字であなた方の姿は、 これしかないと言わんばかりに、私たちに挑戦するのです。

私たちキリスト者は自分の心と魂に やはりキリストを刻み続けて日々を送っています。 良きキリスト者でありたい、より良きキリスト者でありたいと日々祈り、 聖書にも親しみ、神の前にそうでない現実を自覚しながら悔い改めの祈りをささげ、 それでも明日に向かって歩んでいきます。 すでにキリスト者となった人々もかつてキリスト者になりたいと思って なおそこを突破したいと願い救いを求めた日々があったことを思い起こすでしょう。 なおそこまでは到達出来てはいない。 いやことによると生涯をかけてしきれないかもしれない。 自分の内側にさらに一歩信仰的でありたい。 そうした志まで決別してはならない。 思い起こせばこうした言葉は聖書の中にしばしば繰り返し述べられます。

マタイ5:48
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、 あなた方も完全なものとなりなさい。」

1ペトロ1:16
「あなた方は聖なる者となれ。わたしは聖なるものだからである」

「だからあなた方の天の父が完全であられるように、 あなたがたも完全なものになりなさい。」
とてもできることではない。神さまの真似をしろと言っても無理です。 でも、神がともにいてくださるようになったのなら、 多少それに見合ったなにかはあるはずです。 神に救われたのに何も変わらない、何の感動もないということはそれこそ違う話でしょう。 神のものになったら、なったらしく生きるということはあるはずです。 根本が違ってきたら外見は元のままかもしれない。 一向に代わり映えがしないといわれるかもしれない。 でもなんとかして神に倣おうキリストに倣おうという思いが生まれれば そのことはいつも思いの中にあります。 それはわずかながらも顔つきに、表情に、立ち振る舞いに現われてきます。

その事は誰に対してでも言われることではありません。 「あなた方は神に愛されている子供ですから…」 と言われています。 神に愛されている人間には神に愛されているがゆえに、 生まれながらの人間では到底できないはずの、神に倣うことができるのです。

ここでは神に愛されているという言葉が繰り返し、重ねられて言われます。 神に倣うものは、愛の中に歩きなさい。 神に愛せられ、神を愛して生きているということは、その心がいつも神の愛を供給されている。

愛するという行為は自分よりも他者の思いをくみ取ることでもあります。 自己愛が先行する人は他者を愛することをしていないものです。 人を愛するときは、いつでも自分の欲に勝つか、他者の思いを第一に汲むかを、 選び取らねばなりません。 人を愛するとき、往々にしてまず自分の欲望をいかに克服するかが問われます。 それは多分に自分の感情を殺すことにつながります。 人を愛するからこそ、自分の思いを飲み込む。それは聖霊によってでしかなしえないことです。 それは聖霊を仰ぐ生活をしていなければできないことです。 罪を犯すのはとっさのことです。 日頃の自分では考えてもいないことを言ったり、行(や)ってしまうのが人間です。 それはかねがね聖霊によって自分に勝つ生活をしているのでなければ できることではないのです。

キリストは自らをいけにえとして、神にささげられたと聖書は語ります。 つまりそれによって私たちの罪が許され、神の愛をいつでも、 どんな時でも確信できるようにしてくださった。 だからそれを真似しなさいということでなく、むしろそれによって生かされなさい。 私たちはそれによって生かされるのです。 4章の終わり4:32には 「互いに親切にして憐みの心で接し、神があなた方を許してくださったように、 許しあいなさい」

現代の世界、キリスト教会の中で最も欠けているのが 愛し合う・赦しあうという根源的な出来事です。

われわれのようなものが、神に愛に生きる生活が可能になったのです。 愛される子供にさせられました。 この事実を受け取るように今日差し出されています。

(2020年09月06日 礼拝メッセージ)


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