ここに神の愛が ヨハネの手紙一 2:7-12

本日の聖書の言葉では7,8節に <新しい掟> <古い掟> という聞きなれない言葉が出てきます。 掟−と訳されている言葉はentole- 命令・勅令・禁止命令をも意味したようです。 ですから新共同訳では言葉の強さを表現して <おきて> という、今ではほとんど死語(死に絶えた言葉)のような雰囲気さえ感じますが、 そう訳したのでしょうか。 <古い掟> ではなく、新しい掟.。

キリスト者という人間の在り方は、 単に、過去の一時(いっとき)に洗礼を受けたから、 クリスチャンであるというだけではありません。 当時の人々はユダヤ教の人々と同じ聖書を読んでいた、 だがユダヤの人々とは根本的に違った読み方をしていたのです。 イエスキリストはユダヤの人々に言わせれば律法違反者で十字架刑に処せられた最大の罪びと。 ところがキリスト者からすればまことの神、神と等しいもの。 聖書・旧約聖書は、この方こそ全世界の救いを焦点に描かれた。 そこに真理性があったのです。 アブラハムは全世界の祝福の基になるために選ばれました。 神の祝福はユダヤ人1民族の祝福のためではなかった。 ところがいつの間にかそれが偏狭なユダヤナショナリズムの拠り所になってしまった。

新しく生まれた教会が、新しい旧約聖書の読み方を始めたのは、 当然で正しいことでした。それはヨハネの手紙において言えば 「神を愛し、隣人を愛しなさい。」 と言うことでした。でも、ヨハネはそれを <新しい掟> として語りたいといいます。

鉄の棒にコイルを巻いて、電流をながすと磁石になりますね。 たんなる鉄の塊が、信じられない力を生み出して、自動車一台を持ち上げたりするのです。 キリスト教信仰という電流が流れると、 人が信じられないような力強さを発揮することがあります。 信仰とはそういうものです。

ヨハネは神の御子がこの世に遣わされ、2:2節によればこの方が、 「全世界の罪を償ういけにえ」として、自らをささげられた。 その十字架の出来事、をあらためて生き生きと受け止めよう。 あの十字架の出来事の中に生き生きと、時として生々しく示されている気高い、 いと高き神の愛に、気付いて欲しい、心動かされてほしい。 ヨハネのこの手紙をかいた人の思いがそこに込められます。。

ヨハネの手紙の大変有名な言葉 4:9-10を読みます。

9−ここに、神の愛が私たちの内にしめされました。
10−ここに愛があります。

ここ。ここなのですよ。そこに目を向けてほしい。 ここに立ち返ってほしい。そこにこそ真の新しさがあるのです。 ヨハネはこういうのです。

ただ、これが何故 <掟> でなければならないのだろう。 掟とは <命令> <戒め> <さだめ> <禁止命令> とも訳されます。 ここで掟などと言われたらまたユダヤ教に戻ってしまうではないか。 そういう感触を得ても少しも違わないではないか・・・

神を信じるということは、確かにこころの自由を得ることですが、 同時に、それは信じるわたしたちの心のあり方を決めることでもあります。 それは私たちの日常を作り上げていきます。

神を知ることは、 その神の本質に従って生きようとすることに当然つながるのです。 神を正しく受け止めようとすると、神が与えてくださる恵みも、 神の恵みは私たちには罪と決別するとか、何らかの自己変革を迫られるとか、 甘い味ばかりでなく、苦みも、辛さも伴うこともあるかもしれない。 そうして何らか神に答えようとする生き方を生み出さずにおかないのです。

<神は愛である。> という事実は、当然 <あなたがたも愛に生きなさい。> <愛するものとしていきなさい。> と言うことになるのです。 神は愛ですといいながら、 人種差別や偏見に何の問題性も持ち得ないということはありえない。

<新しい掟> という言葉は、ヨハネ福音書13:34でも主イエスの言葉として言われます。 主イエスは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私が あなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 新しい掟とは、神がイエスキリストにおいて具体的、現実的に表された愛に、 ひとは、その愛を受けたものとして生きるべきなのだ。 そう述べるのです。 たしかにそういわれれば、愛とは <おきて的な> 要素を持ちます。 一方からみれば、それは縛られることです。その縛りの中に自分の身をおく。 それを重荷としてではなく、それをむしろ当然として喜ぶのです。 愛にはある責任が伴うといっても良いかもしれない。

4:20「目に見える兄弟を愛さないものは、 目に見えない神を愛することは出来ません。」 その掟にしたがっているか否かで、神への信仰も計られる、現されるという性格のものです。 信仰は心のもちようの問題。実際の社会でどう生きるのか、 教会を一歩でたらどう考えるのか、どう生きるのかは、関係ないのだ。 ヨハネの時代にはそうした二元論的な生き方・傾向がその時代にはあったのです。 ヨハネは明確にそれは間違いなのだと教えたのです。

神は神との関係を破って罪の中にある人間を愛してくださって、 御子イエスキリストをわたしたちのために送ってくださいました。 神との関係においては、人は神に背を向けた、神に愛される価値のない存在なのです。 にもかかわらず、神は人を深く愛し、大きな犠牲をものともせず、 再び神のもとで生きることが出来るものとしてくださった。 神は人を、神の子として生きることを許し、人間を再創造してくださった。 「キリストの愛にふさわしいものが愛を受けるのでなく、キリストの愛を受けたも のが、それに相応しく変えられていく」 そのことが神の愛の中で起こるのです。

わたしたちに <新しい掟> として差し出された生き方は、人が刹那の感情的愛ではなく、 神の愛アガペーにいきなさい、と神が人に求めたといえます。

でも、わたしたちの関心は自分にあります。 自分だけ何とか向上させたい。自分だけ得をしたい。 自分からすすんで、誰かのために犠牲になるなど、 あまり積極的に考えることは難しいと思っています。

神の愛アガペーにいきなさいといわれても、 実際にはそうしたいと願っても、到底そうできない自分の貧しさ、 弱さだけしか見えてこないのです。 でも、神が神の愛アガペーそのものであるなら、 神を生きるものは、神の愛に生きるべきとヨハネは、励まします。 そこで開き直ったり、あきらめたりしないで、 さらに足を一歩進めなさいと、励ますのです。

具体的には10節、「兄弟を愛する」こととしていわれます。 兄弟とは、教会にある関係だけでなく、共に生きている人、 隣人、家族、夫婦、地域の人々も含まれるでしょう。 自分にとって役に立つ人、価値ある人だけでなくても、 それらの人が生きられるように、 仕えることが求められると言うことでしょう。

9節には、「光の中にいる」といいながら、 兄弟を憎む人は、いまもなお闇の中にいます。

8節 「でも今は闇が去って、すでにまことの光が輝いている。」 世界はイエスキリストにおいてまことの愛を知った。 罪や悪や不義がなくなったわけではありません。 でも罪や悪や不義が世界の支配者ではない。イエスキリストによる愛や許しや、 命が、真剣に求めれば必ず与えられるのです。

4:9「ここに神の愛が私たちの内にしめされました。」
4:10「ここに愛があります。」

そうした世界にわたしたちは招かれているといえます。 ですから 4:6 には「イエスが歩まれたように自らも歩まねばなりません。」 と勧められます。 キリスト者にとって、 「イエスが歩まれたように歩む」とは、様々な選択可能な道のひとつ、 というのではありません。 歩み方は違いますが、これのみが神の愛にお答えする唯一の道。 いけるキリストに出会う唯一の道として存在しているのです。 これは一方には不可能なほどの課題です。私たちは互いに自己中心的なのですから。 しかしだからこそ神を仰ぐのです。祈りつつ歩みます。 そこに不可能が可能になる道が開かれます。

(2020年08月09日 礼拝メッセージ)


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