主が生かしてくださるので ローマ 14:1-12

教会生活を歩むうえでやはりとても大切なのは他者を受け入れ、 信仰の交わりの中で共に生きるということだと思います。 教会に行くと、この世の人間関係とは違うものがあると思います。 教会では張り合ったり、足を引っ張り合ったりではなく、だれもが受け入れられている、 それこそ人間らしい教会として、なるほど教会だと安心できる麗しさに包まれる交わりがあります。 そうした交わりを経験できるからこそ、教会のすばらしさに心捉われるのだと思います。 けれども、だからこそ教会に深く入ってそこに世間一般と何の変りもない醜い人間関係が続いているとしたら、 人は失望します。 他者をさげすんだり、排除したりすることが教会にもあるという現実を見せられたら、 いったいこれでも教会かという思いに駆られることでしょう。 ですから教会の兄弟姉妹たちが互いに受け入れ合っているかどうかという問題は どの教会にとっても切実で、現実的な教会らしさが問われる重大な問題です。

パウロは14:1 「信仰の弱い人を受け入れなさい。」 と書きました。またト書きにあるように 「兄弟を裁いてはならない」 と10節で語ります。 これはパウロがまださほど親しくはなかったローマの教会に書き送った文章です。 ローマ教会はすでにパウロと親しかった何人もの親友がいました。 同時に、 信仰の交わりをめぐってパウロがひと言苦言を表明せざるを得ない複雑な事情が起こっていたのでしょう。 これは初代教会の出来事ですが、 現代のローマとは遠く離れた日本の教会でもない話ではありません。

と言いますのはこれは教会で起こった具体的な事象ですが、 「人々の信仰の本質」 が現れているからです。 教会生活は多面的です。教会では礼拝に出席するだけでよいと考える人もいます。 その人を受け入れるのでも、裁くのでもなく、煩わしい人間関係抜きで、 教会に行って挨拶もせず、言葉も交わさず、 礼拝に出席するのみと考える人が、時にいるかもしれない。

けれど聖書は、教会の兄弟姉妹との生活を除いては、 信仰も礼拝も本当には成立しないといいます。 ヨハネ1 4:20 「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできません。」 神は、弟アベルを殺したカインに向かって、わざわざ 「あなたの弟アベルはどこにいるか」 と問うのです。 聖書の見方は、人は神を失うと、自分をも見失うというものと言えます。 同時に兄弟をも失うという見方をします。

主イエスは良きサマリア人のお話(ルカ10章)の後で 「だれがこの人の隣人になったか」 を問います。兄弟と共に生きる、隣人となって生きる、 それが神と共に生きる生き方であり、兄弟との生活の中に神関係が現れる、 生き写しになるということです。 兄弟とどう生きるかということを除いて、神と共に生きる生活は具体的にはならないのです。

パウロは 「信仰の弱い人を受け入れなさい。」 と書きました。 <信仰の弱い人> とはここでは宗教的理由から野菜しか食べない人を指したようです。 おそらく律法との兼ね合いで、菜食が自分の生活、宗教性を保つ支えになっていた。 そのスタイルを崩すと信仰生活ができなくなってしまう。 何かに脅かされているように頑なに菜食にこだわっている人がいた。

現代では逆の意味で 「禁酒・禁煙」 というのがあるかもしれない。 それは健康上からも進められることですし、立派な習慣です。 しかしそれを崩すと信仰生活も崩されるような気がしてことさらの禁酒・禁煙にこだわるとすると、 それは信仰の強さを意味するのではなく、信仰の弱さにつながりかねない、とも言えます。 信仰生活は本当は主の恵みに対する自由な応答で、 何か一つのパターンにしがみつくような生活ではありません。

<兄弟を侮ってはならない> …なぜならばキリストがその人のために死なれたから。 この兄弟は <妻> であったり、 <夫> であったりもします。 わたしたち自身も主のものです。 ですから自分を軽く扱ったり、汚してはならない。 同時にキリストは生きている人にも、死んだ人にも主となってくださった。 だから兄弟を侮ったり、裁いてはならないとパウロはかたります。

事は菜食の問題だったり、 例えば禁酒禁煙の問題でも異言や聖さんについてでもいいのですが些細な違い、 考え方の相違を許せない、というようなことは信仰者の世界ではありがちのことです。

そこでパウロはここでキリストの十字架に目を転じさせるのです。(8節、9節)

もし、もう一度私たちがキリストの十字架の前に立とうとすると、 この私たちはあるがままで主の物にされたのです。 パウロは <私たち> と書いています。そこには私だけではないのです。 わたしと意見を異にする肉食を否定する兄弟もそこにいるのかもしれない。 その兄弟を裁いてしまう、他者を侮ってしまう私も主の者なのです

もしこのことがお互いの関係のなかで理解されるとなれば お互いが主の十字架と復活の恵みに生かされると、他人を簡単にさばくことなど不可能です。 主がこの兄弟とともにいてくださるなら、主は私とともにいても下さるのです。 なぜ人間が他者を軽くみられるかと言えば、自分自身の存在が軽く感じられているからです。 神は私のために十字架に登られた事実は決して軽くありません。 主は私を救いに導かれた。誰かをさげすんだり、軽く見る必要などどこにもありません。

人が立つべき言こそここにあります。 主のものにされた同士が、兄弟姉妹として歩んでゆく。 そこに主の恵みが豊かに実りを与えてくださいます。

(2020年08月02日 礼拝メッセージ)


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