「わたしである」 ヨハネ福音書18:1−11

今日から金曜日まで、教会暦ではイエス・キリストが十字架にかかられた日々として 受難週と名付けられイエスキリストの十字架の意味を心に留めます。今日、与えられている聖書のテキストは ヨハネ18章1−11節の所になります。18章は 「こう話し終え終えると・・・」で始まります。 それは13章―16章の主イエスのいわば告別説教、17章の大祭司の祈りと言われる部分を指しています。 言いたいことはすべて言い尽くし、ここから捕縛され、尋問され、処刑される重大部分に差し掛かるのです。

3節 <ユダは一隊の兵士と、祭司長ファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引連れて、そこにやってきた。> 12節にはこの部隊を指揮していたのは千人隊長であると説明されています。

つまりこの時のイエスの逮捕のためにローマ帝国軍が動員され、派遣されたのです。 ローマの1軍団は600人から1000人くらいで構成されるといわれます。 それにしてもフルサイズの軍団が送られたかどうかはわかりません。 100人から300人であったかもしれない。それにしても重武装のローマの軍団が送られた。 よく軍靴の響きと言われます。2・26事件の動員に参加させられた人の話ですが、 あのように軍隊が東京の街を軍靴の響きを立てて行進するだけで一般の人々を脅しつける十分な効果があったと言っていました。 つまりそれほど祭司長、律法学者たちはこの世のイエスの逮捕を絶対に失敗したくなかった。

夜、人々の目が届かないくらい谷の園で、イエスを確実に逮捕、拘留して、 ありうるはずのない不法で徹夜の裁判を行って、 加えてローマの権威の下で一気に十字架による殺害を決行しようという強い意志が感じられます。 この逮捕を実行するためにまず挙げられているのは <祭司長たち> ユダヤの宗教的最高指導者たちです。さらに <ファリサイ派の人たち> ユダヤの70人議会の構成員で、長老たちも含めた政治勢力です。 さらにファリサイ派から遣わされた <下役> とは神殿警察隊です。つまり軍事、宗教、政治、公安の権力を総動員してユダヤ当局がイエスを逮捕しようとした。 しかも逮捕時は夜、それも庭園、園と言われる場所ですから、たいまつが必要でした。 逆から言えば漆黒の闇夜。

ヨハネ福音書には書かれていませんが、 この人々を案内して来たのがイスカリオテのユダで、 連れにこれがイエスであるとするしるしはイエスへの接吻だったと書かれています。 ユダは、かつては心からの愛や尊敬をこめて主イエスに接吻を交わすことが出来た関係であった。 しかし今は誓い合った敬愛も、信頼も残骸と化してしまっている。 その関係が重荷そのものとなってしまっている。ユダの裏切りの接吻にはさまざまなことが重なり合います。

4節 イエスはご自分の身の上に起こることを何もかも知っておられ、 進み出て「だれを探して いるのか」と言われた。

5節 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。

 ここに主イエスを、捕えるために来た人々は、だれがナザレのイエスかを判別できなかった。 権力者たちはイエスへの強い殺意を持ってはいたけれど、逮捕に向かった兵たちは腰が引けていた。 逮捕のためにローマの軍団を繰り出したのも自信のなさでした。 イエスの真の力を恐れていた。ナザレのイエスを探していると取り手たちが言ったとき、 主イエスは(私がナザレのイエスである)ではなく「わたしである」 (5節)と聞き方によると妙な言い方をしました。

6節 イエスが「わたしである」と言われた時彼らは後ずさりして倒れた。

7節 そこで、イエスが「だれを探しているのか」と重ねてお訪ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。

8節 すると、イエスは言われた。「わたしである。」3度目でした。

その一方で、シモンペトロが剣を持っていたというのも過剰で異常な反応でした。 剣を隠し持っていただけでなく、大祭司の手下に撃ってかかり、その右の耳を切り落としたという行動です。 なぜペトロがここで剣を持っていたのでしょうか。ペトロはもともと漁師です。 刀を振り回せるような人間ではないのです。熱心党というローマ人へのテロリスト集団に所属していた人でもありません。 長いローブの下に隠し持っていたと思われます。 それにしてもなぜ、日頃のペトロからは想像できない行動に打って出たのでしょう。

じつは、ここで冷静を保つことが出来ていたのは主イエスひとりでしょう。ここでは兵たちは集団パニックに落ちていた。 一触即発ここでは何がおこるかだれも分からない状況です。 しかも漆黒の闇。松明(たいまつ)と剣と盾のこすれあう音がいっそう人々の心を暴力的に変えていきます。 ペトロほどの、もはや若くない人がひそかに剣を持って、持っていればこういう状況では相手に切りかかるのです。

主イエスは3度わたしがあなた方の探しているイエスであると表明します。3度そう言われるのです。 その後ペトロは、主イエスの裁判が行われていた大祭司の屋敷の庭に潜入します。 しかしそこにいた女性に「あなたもあのイエスの仲間では」と問われて、いいえとんでもないと3回、しかも強く否定した。 仲間だと知れたら、この後どうなるか分からない。 考える間もなく、恐怖が先立って、ペトロは取り返しのつかない失敗をします。 まさにその前段階としてここで、恐怖に駆られて、刀を振り回します。

ペトロは3度自分に弟子のペトロではないと否定します。(25−27)
福音書記者ルカは主イエスのわたしこそ、そのイエスであるという肯定的応答を3度示します。 けれどペトロは私はナザレのイエスの弟子でも、ペトロでもないと否定するのです。 あまりも鮮やかなこの対比。

暗闇が人の世を支配する時代があるかもしれない。 けれど圧倒的力をもつものの前にあって神の子であることを少しも曲げない主イエスがおられます。 十字架に主イエスがかけられたとき、一人の百人隊長が 「ああまことにこの人は神の子だった」 と告白したのです。 この人も主イエスの逮捕に向かった軍団の一員、一部始終を見つめていた一人だったかもしれない。 その主イエスの姿を前にして暗闇の力こそ躓き倒れるのです。 闇は光に勝たなかった。 これ以上の悲惨と罪はない思える中、次々と十字架の傍らで信仰者が生まれてゆくのです。

(2020年04月05日 礼拝メッセージ)


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