全世界に出て行って・・・

その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をお咎めになった。 復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったからである。それから、 イエスは言われた「全世界に行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい。 信じて洗礼を受けるものは救われる・・・。」
マルコ16:14-16

 復活した主イエスがいよいよ天にお帰りになる。 弟子たちとの時はいよいよ極く限られた時となった。 マルコ福音書の描き出す弟子たちの姿は主イエスあまりにみっともない姿だった。 彼らはイエスの復活を信じていなかった。かれらは主イエスが咎(とが)めずにはいられないほどの <不信仰とかたくなな心>に支配されていました。 咎めるとは辞書には<罪やあやまちを責めること>とあります。 この瞬間は主イエスと弟子たちの最後の別れの場面です。

 男性の弟子たちは主イエスが十字架にかけられたとき、 「皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコ14:50)のでした。 女性の弟子たちは最後まで主イエスの十字架を見つめ、亡骸の引き取りまで果たしていました。 しかしペトロを中心とする男性の弟子たちは、自ら弟子であることを否定し、 復活した主を前にしてもかたくなな心に引きこもっていたのです。

 その弟子たちに主イエスは全世界に出て行って、 「すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい。」と命じられた。 それは可能性からすれば絶対的に不可能な命令でしょう。 そう語られた弟子からすれば、困惑する以外にどうすることもできないはずです。 けれどそういわれながら弟子たちは少なくもそう語られる主イエスの前から決して離れなかったのです。 主イエスの前から居なくならなかった。主イエスの前に居続けること、 そこに主イエスの何らかの出来事が、いや途方もない出来事がそこから始まるのです。 弟子たちは可能性から言えば限りなくゼロに等しい存在にすぎなかった。 弟子たちはというべきでなく、我われはというべきかもしれない、 主イエスはそうした可能性ゼロの存在である頼りない者たちに働きかけるのです。

 イエスキリストこそ希望の光です。20世紀にあった二度の世界大戦の死者数は、 1億人を超したといわれます。アメリカを除けば、ヨーロッパも、アジアも廃墟となったのです。 それまでの破壊を人類は防ぐことができませんでした。 しかもその反省をその後の世界は生かし切っているとは言えません。 われわれはまさに弟子たちと少しもかわらない状態でイエスキリストの前に立たされています。 でも、問題は我々の不可能性にあるのではなくではなく、イエスキリストの全能にあるのです。 「イエスキリストはきのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」 (ヘブライ13:8)

 イエスキリストは今日もわたしたちに働きかけ、 わたしたちを生かしてくださいます。

(2015年09月27日 週報より)


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