共有と分かち合い

信者たちは皆一つになって、すべてのものを共有にし、 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて皆がそれを分け合った。 そして、毎日心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、 喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。」 (使徒言行録2:43-47)
主イエスが復活し、召天し、聖霊が降ってから教会の姿は突然一変しました。 自然発生的に突如人々は所有を共有するキリスト教の原始共産制と呼ばれる事態が起こったのです。 それはそれ以前も、その後も実現しませんでした。聖霊降臨が起こったその直後だけの事でした。

 教会も人の集まりですから、権力者もいれば、無産者もいます。金持ちも、貧しい 人もいます。けれどほかの集団と違うことは、だからと言って、人間関係は上だ、 下だとはならないのです。させてはならないのです。残念ながら、 こうした出来事が生起したのはこの時限りの事でした。教会が313年にローマ帝国に公認されるや否や、 教会は権力者の意向なしには存在し得なくなってしまい、また教会自身が権力の場となって、 こうした原初の教会の姿は忘れられてしまいました。けれど教会のあるべき姿としては、 この共有と分かち合い、喜びと真心をもって、ともに食卓に着く、 あのイエス・キリストがおられたところに生き生きと人々が結ばれた姿でした。誰も貧しくなく、 だれも金持ちすぎない。 『信者たちは皆一つとなって』『おのおのの必要に応じて、皆が分け合った』

 他方で人の心は基本的に自分にとって<損か得か>という打算も働きます。 どんなに知的であろうと、宗教的価値観を持とうと、 自己中心性というものは人の心から離れないのです。 そうした世界では他者と共に生きるということは無駄なこととして受け止められます。 他者と連帯するなど無駄で、損失でしかない愚かなことにしか見えないのです。 だからこそ、あの聖霊降臨の後に起こった出来事は、まさにキリストの心に触れた、 人々の心が化学変化した結果でした。十字架をさえ受け入れ、 全世界の人々のため歩まれたイエス・キリストの生き方は<損か得か> という生き方から人を生まれ変わらせる力があるのです。

 イエスキリストの思いが、人の心に浸透すると、 人は損得の世界から解放されます。自然で、自由に、喜びにあふれ、 さらには敵意や憎悪ばかりの人間関係から解放されるのです。原始教会は、 ただ何千人ほどの人が集まっただけではなかった。 こうした心に人々が一つとなったことのほうがよほど教会らしい風景として実現したのでした。

(2015年09月06日 週報より)


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