今週は信徒執筆です

戦後70年と私の小さな自分史

 小松 千恵子           

 箪笥の横にさげられていたカレンダー。その写真にはダッチ・デソート・クライスラーと銘記され、 角張った長い車体はスマートに輝いていた。あーこれがアメリカの車なんだと思った。 1951年(昭和26年)の年号だった。「遥か遠い砂漠の地より新年の御挨拶を申し上げます」という1通の絵葉書を思い出す。 サウジアラビアよりと記されていたかどうか今となってははっきりしていないが、 半世紀以上も昔の話、絵葉書の砂漠の地は私の想像をかき立てる憧れの地となった。 スエズ紛争とイーデン外相の端正な顔、ハンガリー動乱の戦車の前に立ちはだかっている民衆の姿、 本のタイトルは「自由の為に、ただ自由の為に」だった。 ミャンマー(当時はビルマ)の国連事務総長だったウ・タント氏、 東洋人の持つ穏やかで思慮深そうな風貌が忘れられない。 それからディズニー映画。華やかで明るく美しかった。小学生の頃の事だ。

 中学生になりICUの第一期生だった学生が私の家庭教師となり、 初めて英語を学んでいく楽しさを教えてくれた。外の世界が少しずつ具体化して形作られていった。 ただ残念な事に学校の校風が嫌でたまらず、 何か思い切りぶつけてみたい気持ちはあってもその術がわからず、 尊敬したい教師にも出会えず、野暮ったい制服を着て渋谷まで悶々と通い続けた。 きっと誰もが同じような思いを抱いていたと思うが。 高校生の頃、自称文学少女で、フランスに心酔していた。 フランスの小説・映画・美術にまで足を伸ばした。 深く浅く、勝手に自分の感情にまかせて、夢を見ていたのだと思う。 ジェラール・フィリップのエレガントな容姿と美しいフランス語。 「一番高い塔の歌」ランボー作。エッフェル塔の下にその詩が書かれていた小さな写真。 長い間、それは私の宝物になっていた。

 大学受験の勉強もしなかったので、そのままエレベーター式に大学に入った。 そこでも何度かやめようかと思いながら、4年間を過ごした。しかしこの4年間は大きな収穫があった。 私という土台を築いてくれた所だったと思う。両親に心から感謝している。 通学で10年、それからまた7〜8年、渋谷という街に右往左往しながら若い時代を過ごし、 私の世界は広がり続けた。憧れのヨーロッパ諸国を旅して帰国した時、 私は満足感と共に、日本という国を改めて直視することができたのかもしれない。 ヨーロッパと一言で片づけられないが、全体に何となく閉塞感を覚えた。 大袈裟な言い方をすれば、「日本は天まで突き抜ける自由がある」と感じた。 日本の方がおもしろいと思った。満足感と安心感だったのだろう。 敗戦の混乱期からやっと抜け出て、安保闘争、所得倍増計画、日本列島改造論、 と次々に目標を打上げ、日本国民を経済優先の大きな流れの中に巻き込んでいった。 国民もまた経済優先を第一に、ひたすら仕事に励んでいった。何も考えなかった。 忙しくて考える暇もなかったのだ。この時代、私達は日毎に発展してゆく企業の裏で、 どれだけの人々が苦しんでいたのか知らなかった。一人一人に将来への夢と希望が約束され、 働く事の空しさ等なかったように思う。単純に未来が信じられた時代だった。

 結婚した相手は私以上に外向きの人で、日本と海外を往復する転勤族だった。 長男はタイのバンコクで、長女は兵庫県宝塚市で生まれている。バンコク時代、 「ディア・ハンター」というアメリカ映画を観た。ベトナム戦争がやっと終わりを遂げ、 アメリカには重苦しい厭戦気分が漂っていた頃だ。日本はその頃の事を「ベトナム特需」と呼んでいたのだ。 何度も何度もくり返されてきた平和への願い。その願いは3.11でひっくり返ってしまった。 もう二度とあの土は、海は元に戻らない。企業は公害を生み出した。 健康で幸せに生きられる人たちを廃人のようにしてしまった公害の原点とも言える「水俣病」、 「産業廃棄物」と呼ばれる放射能の汚染土、私達が死んでもまだ終息不可能の廃炉作業。 遂に私達の国はここまで来てしまったのだ。戦後70年の日本と自分が二重に重なる。

 気づかず進んで来てしまい、後戻りも出来ない。 昔の生活を懐かしい想いでふり返ってみても、それは二度と戻ってこない。 数々起こしてきた悲惨な負の事実を知り、その事に向き合い、心から謝罪することしかないのか。 私の周囲の人々は今思い出すと、皆優しかった。子供思いの両親に心から感謝している。 床の間、畳、障子、襖、長い廊下に続く玄関、松の木と門、普通の日本の家屋、家庭だった。 そして何よりもそこに優しい日本人がいた。静かで人に親切で勤勉でつつましい姿があった。 目には見えないが、私達の周りは、ひっそりと大きな優しさと厳しさを備えた何者かにずっと護られていたのだと感じる。 そしてこれからもずっと・・・。私には感謝の思いで一杯だ。

(2015年04月12日 週報より)


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