今週は信徒執筆です

変わること、変わらないこと

大澤 信之    

 今年の九月末で、29年間続いた会社生活を終えることになりました。私にとっては、 一つの節目(変化点)を迎えたことになります。長かった会社生活ですが、定年というシステムで、 別の生活に変わらなければならないという変化点になります。「長い」ということは、 しかし「永い」つまり「変わらない」ということとは同じではないことを、今更のように思います。

 もちろん、変わらない事柄は大切ではないと言うことではありません。変わるからこそ、 大切にいたわる必要がある場合も多いと思います。季節はうつろうことで、 それぞれの大切さを私たちに教えてくれます。受験・就職・恋愛は限られている大切な時間ですし、 相手を思いやりいたわることの大切さを知る比較的長い結婚生活や家族との時間も、 変わるという意味では同じですが、私たちが大切にしている時間です。しかし、 同時にこれらの時間は変わるという事を忘れてはいけないのだと思います。そうでないと、 その時間を絶対化してしまい、周囲が見えなくなり、受験戦争、就職戦線という言葉を生み出します。 戦争ですから、相手は打ち負かす対象であり、相手を思いやる余裕はなくなります。 勢い「勝ち組み」「負け組み」を区別したがり、「負け組み」に区別された人は脱落者の様に扱われます。

 イエス様の時代、当時の「律法学者」、「ファリサイ派」の人々は、律法を深く学び、 その意味するところを正確に手中にしたと思い込み、その解釈を絶対化してしまいました。 当然、この絶対化した解釈を理解しない人、この解釈に違反した人は罪人として裁くことになってゆきました。 イエス様はこれを強く批判されました。批判された「律法学者」や「ファリサイ派」の人々は、 絶対化した解釈を理解しないイエス様を十字架に追いやります。イエス様を十字架へと追いやる事で、 自分たちの解釈が正しいのだと主張する方法しか残っていなかったのです。 十字架へとイエス様を追いやってもなお自らの「律法解釈の絶対化」を正当化する事は間違っていると考える事ができなかったのです。

 「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、 わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。 「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)

 旧約聖書申命記21章23節をパウロが引用したものですが、 旧約聖書では「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」だったものを、 「神に」を削り落として、13節全体が語るように「律法によって呪われている」と解釈しています。 つまり「十字架につけられた者は、律法に呪われた者」と言うのです。 当時のユダヤで「律法の解釈を絶対化」した「強い」人々にとって、 やはり「強いローマ人」には採用されない処刑手段「十字架」は、 「絶対化した律法解釈」に追いやられた人々の「躓き」、「弱さ」、「愚かさ」の象徴だったのでしょう。 パウロは、イエス様の十字架は、「律法の呪い」から「全ての人」を開放して下さったのだと言うのです。 宗教的な「躓き」「弱さ」「愚かさ」の象徴だった十字架を神様は「復活」という「しるし」で肯定されたのです。

 このイエス様の「十字架」は変わらないのです。パウロは、第一コリント2章2節で 「なぜならば私は、あなたがたのうちにあっては、イエス・キリスト、 しかも十字架につけられてしまっているその方以外にはなにごとも知ろうとしない、 という決断をしたからである。」(岩波書店版「新約聖書 パウロ書簡」)

 と言います。イエス様は、過去十字架にかかられたのですが、 今は十字架に関係しないと言うのでは無いのです。パウロは、 今も十字架にかかっておられると言うのです(文語訳聖書では、原文に忠実な訳になっています)。 このことは、変わらないと言うのです。このことに、教会も私たちの日々の生活もかかっているのだと思います。 聖書が語る、このイエス様の十字架という瞬間に、永遠がかかっていると言うのです。 この変わらないイエス様を基として、変わりゆく事ごとを大切にして行きたいと、 今の自分の足りなさを思い返しながら願います。

(2014年09月14日 週報より)


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