今週は信徒執筆です

最近心にかかったこと

 Y.T           

 最近の新聞、テレビの報道には、心痛むものがあまりにも多いと思います。 今迄も度度報じられてきている、幼い子供達の命が失われている、しかも保護者である父母の手によって、 葬られてしまっている。それらのニュースに接して、だんだんと気持が麻痺してゆくのではないかという恐れがあります。 それは強く抱いています。

 今回週報に文を書かせていただくので、今迄の週報に目を通しておりました。 去年の1月13日の週報に、「ある新聞記事より」と、母親にゴルフ道具で殴られて志望した女の子の話が載っております。 「あまりにも哀しすぎて、いつまでも記憶にあります。人間はどこまで残酷になれるんでしょう。」 とコメントされています。

 私自身も感じますが、人間の感情の激しさ、怒りや妬みが、憎悪や残虐性となってしまうことは、 容易に理解出来ます。言葉で相手の心を打ちのめす、暴力を振るっているうちに我を忘れて、 続けてしまっている。感情を制御出来なくなっていることに気が付かないまま、悲劇は起きてしまっている。

 その週報の記事の後も、同じ様な事件は絶えず、何人の子供の命が消えていった事でしょうか。 それらの報道の時、亡くなった子供には祖父母がいるわけです。両親は大体、年令が若いから、 その祖父母もまだ元気な世代が多いのではと思われます。何の?りもなかったのでしょうか。 中には遠方に住み、音信もないという事もあるかもしれません。恨みをうちあけて、 話を聞いてもらえる事がなかったか、すべて諦めてしまって、 無力な子供にはけ口を向けていったのか。憶測では推し量れません。ただ、以前、何かの記事に、 幼時に虐待を受けた子供は、成人してから自分の子供に暴力をふるう事があるとありました。 虐待していた両親などにも、深い心の傷がしまいこまれていた場合もあるのだろうかと。 又、無縁社会とか孤独死とか、心の冷えこむ言葉がごく普通に話され、耳に馴れてきている現実に、 私達は生きているのだと痛感します。子供達の魂が神様のみ許に導かれて、 永遠のやすらぎを与えられますように、切に祈りたいと思います。

 暗澹たる気持でおりました時、「野の花のように」という、さまざまの野の花がやさしく描かれている小冊子に、 羽鳥明先生の文が添えられてありますが、くじけそうな私は励まされました。聖書をひろげて拝読しました。

 『あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください。』 詩篇119.133(口語訳)

 詩篇には、すばらしい祈りが沢山あります。的を得た祈りを、誠実に(信じる心、従う心で)祈る時、 祈り終えた時には、神様の答が戸口に届いているというのが実感です。

 第一に、みことばに対する全き信頼です。(詩篇19.7〜8)

 第二点は、心の支配の座を、いかなる罪にもゆずらず、あくまで内住のキリストにという覚悟(信仰)です。

 『信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、 愛にしっかりと立つ者としてくださるように。』(エフェソ3.17)

(2014年07月13日 週報より)


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