今週は信徒執筆です

ドイツで考えたこと

大澤 信之    

 最近、仕事でドイツに行く機会があり、約1週間滞在しました。 考えるとドイツへの出張は、今度で4回目になりますが、いつも短い滞在期間なので、 仕事目的以外の場所に行くチャンスはありませんでしたし、 日曜日に出国して土曜日に帰国する事が多く、 土曜日、日曜部のドイツをあまり経験していませんでした。 しかし、今回は急に土曜日の午後が空きました。 その時居た場所が、ミュンヘンから車で約2時間のオーストリア国境に近いフロンテンという町でした。 ミュンヘン暮らしの長い駐在員がフュッセンが車で20分くらいと近いので行きましょうと言うので、 行く事になりました。美しいノイシュバイン・シュタイン城を見てから、 フュッセンの町に行き早い夕食を食べました。 ドイツの町は、フュッセンに限らず、土曜の午後2:00以降は、 限られた店(レストラン、高速道路のガソリンスタンド等) 以外は店を営業することが法律で禁じられているとの事で閉まっています。 私の旅行カバンの取っ手が、ミュンヘン空港で荷物を受け取った時から調子が悪く、 フュッセンの町で購入しようと計画していたのですが、 諦めて宿に帰りました。その日はオーストリアのホテルに泊まりました。 驚いた事に、ドイツとオーストリアの国境には検問はありません。 東京都から神奈川県に入るように往来自由です。 EUなのだと実感しました(全てのEU加盟国がそうなのかは、勉強不足で判りません)。 翌朝の日曜日にミュンヘンまでアウトバーンで2時間のドライブをしました。 ミュンヘン駐在のドライバーは、 日曜日の空いているアウトバーンを時速200km/hで飛ばしていました。 日曜日のアウトバーンをトラックは走っていません、法律で禁じられているそうです。 家族連れや若い人たちが、キャンピングカーを後ろに着けたマイカーで郊外に向かって行きます。

 土曜日午後2:00以降が店を営業してはいけないのも、 日曜日にトラックを運行してはいけなのも、キリスト教の影響だろうと想像出来ます。 「法律で決められている」と言う言葉が心に残りました。 人々が教会に行きやすくするために「法律」で決めたのだろうかとも思いました。 ドイツでは、「法律」が教会に行きなさいと導いているようでした。 しかし「法律」で決めても、多くの人々の心は教会では無く、郊外へと向かっているように見えました。

 日本では、キリスト教の影響は大きくないので当然ですが、 日本で教会の礼拝に参加する事と「法律」は関係していません。 日本では教会に行かない事が「普通」ですから、「普通」が大切な日本人は教会に行く人が多くありません。 当たり前のことですが、教会に行くことは「信仰」の行為だと思います。 すると「信仰」には、「国」、「法律」、「普通」が大切な役割を果たす訳ではなさそうに思えます。 イエスとの出会いは、「国」が、「法律」が、「普通」が作る事ができるものではないようです。 私たちは、小さな存在ですが、イエスとの出会いで与えられる「信仰」は、 上の「3つ」では規定出来ない大きさを持っているのかも知れません。 次の聖書のパウロの言葉は、「信仰」に生きる「大きさ」を力強く語りかけています。

「私たちは、人を惑わす者でいて、同時に真実な者であり、 人に知られていない者でいて、同時に認められた者であり、 死んでいる者でいて、同時に、見よ、生きており、 懲らしめられている者でいて、同時に殺されることのない者であり、 悲しんでいる者でいて、しかし常に喜んでいる者であり、 貧しい者でいて、しかし多くの人を富ませる者であり、 何ももたない者でいて、同時にすべてをもっている者である」
(第2コリント6:8−10、岩波書店版)

(2013年03月17日 週報より)


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