ぶどうのおいしい秋−主につながって

「わたしはまことのぶどうの木・・・わたしにつながっていなさい。そうすれば、私 はあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だ けでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなけれ ば、実を結ぶことができない。」
ヨハネ15,1,4

 ことしは例年にない暑い夏でした。だからでしょうか、 ぶどうがとりわけ糖度が高くおいしいのです。ぶどうの実がたわわに実り、 色づく様は見事ですし、ぶどう農家にとって収穫は大きな喜びでしょう。 主イエスが生活の拠点とされたパレスチナもブドウ栽培は盛んで、 今でもワインは盛んに作られます。イエスもぶどうの収穫には関心があったことでしょう。 確かにぶどうの木においては、枝が木につながっていることが、 実をむすぶ根本的な条件です。そんなことはどの木でも同じだ、 と言ってしまえばそのとおりですが、ぶどうにおいては、 このたわわで見事なぶどうの房々が、尽きるところ一本の幹から、 枝分かれして実りが実現します。それは決してたくましいほどの太さではありません。 その一本の幹をいかに巧みに、棚に枝分かれさせ実りをもたらすかが、 日本のぶどう農家の腕の見せ所です。 これに答えてぶどうの木は地中から養分を吸い上げ数え切れない枝と房を支え、 みのりをもたらしてくれます。

 キリストにつながると言うことは、 キリストの体なる教会につながるということです。毎年、 かつて神学校を卒業した同労者である牧師が、くしの葉が欠けるように、 いつのまにか名簿から消えてゆきます。 こころをやんだり、あるいは、ブライダル専門の牧師(?) に乗り換えたりする人もいます。

 教会でも、教団でも、いかなる団体でも人間の集まりである以上、 たぶん、問題の発生しないところはないでしょう。人は罪びとであり、 その罪人の集合体である以上は、問題が起こることは避けられません。 誰よりも自分自身を見つめて、この歳(とし)にして夜、床につくとき、 その足りなさ、愚かさにうめかない日は、一日としてありません。 しかしこの罪びとに過ぎないわたし自身が、キリストにつながれて、 そうでなければ実るはずのなかった実が、 この生涯において実っていることも否定できない事実です。

 つながるという言葉は、とどまるとも訳されている言葉です。 英語では <abide−とどまる> と言う言葉がつけられています。 結実があるとすれば、キリストにとどまる限りの出来事です。 キリストから離れては・・・糸の切れた凧(たこ)のように自由であるかもしれませんが、 行く先も安定もなく、やがてはどこかに落ちるだけの存在です。 しっかりと主につながってこその、自らの歩みであることを覚え、 糖度の増したこの歳のぶどうを賞味しています。

(2013年10月06日 週報より)


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