今週は信徒執筆です

感動するということ

大澤 信之    

 最近、少し年を重ねたせいか、感動することが多くなったように思います。

 言葉や行動に感動する事が多くなった理由は、経験が少しずつ積み重り、 言葉や行動の奥行が少しは理解できるようになったためかも知れません。 歳を取ると涙もろくなる理由は、生理学的な目の構造が変化するためだけでは無いように思います。

 随分前の話ですが、長女、長男の通った中学の卒業式で感動した事を覚えています。 卒業式の最後に、「卒業生退場」というアナウンスに応えるように、突然、クラスメート全員が、 天井に片手を突き上げながら、大きな声で「3年○組 最高!」と叫んで飛び上がったその姿が、 三年間の生活の結晶のように爽やかに輝いて見えた事が忘れられません。

 最近の歌を聴く機会が少ないのですが、ある歌詞に感動した事を覚えています。吉元由美という作詞家の

「愛を知るために孤独があるなら、無駄な事など、この世界に無い」
「私たちは誰も一人じゃない、ありのままでずっと愛されている」
「奪う事も奪われることも愛とは言わない、悲しい愛などこの世界に無い」

というフレーズが心に残りました。ホルストの組曲「惑星」の中の「木星ジュピター」 の曲にのって歌われるこの歌が有線放送で流されると、何という曲名かという問い合わせが殺到して、 電話で対応に当たる人たちが大変だったと言う話を聞いた事があります。

  言葉を語る時は、語る相手に聞いてほしいと思って語ると思います。 聞いてもらえていない事が判ると残念な思いになります。伝道者も例外では無いでしょう。

 パウロが、アテネでの伝道に失敗しコリントでのユダヤ人伝道にも行き詰まりを覚えていた時、 イエスの幻が現れこう語ります(使徒言行録18:9-10a)。

「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」

 パウロはユダヤ人の「口汚いののしり」を恐れていたのでしょう。 熱弁しても聞いてもらえない事に嫌気がさして語ることが出来なくなっていたのでしょう。 もう誰にも何も言わずに黙っていたいと思っていたのでしょう。 しかし、イエスの幻が語る言葉に深い意味を「感じ」、心が「動いた」のだと思います。 「感動」したのです。イエスは、他の誰でもない「わたしがあなたと共にいる」と言われるのです。

 パウロは、熱く語ることで聞き手の感動を期待していたのかも知れません。 論理的な言葉の攻撃で、相手をねじ伏せる事が出来ると思っていたのかも知れません。 しかし、「語る」では無く「語り続ける事」とは、特別な時に語るのでは無くて、 日々の生活の中で「聞く相手に寄り添うように語ること」、「聞く相手と共にいる事」だと気付いたのかも知れません。 パウロは一年六ヶ月コリントにとどまったと聖書は言います。

 人は激情的な言葉に感情的になったり、論理的に抜けの無い言葉に感心したりするかも知れません。 しかし心に深く根ざした感動は起こらないように思われます。 イエスは、「わたしがあなたと共にいる」と言って下さるのです。この言葉に感動します。

(2013年09月08日 週報より)


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