「金や銀はないが、持っているものをあげよう。」(使徒 3:6)

 福音書に名前を連ねている弟子達と、使徒言行録の冒頭に登場する弟子たちは同じ人物達です。 でも同一人物であるのに、まったく別物ともいえるほどに異なっているように見えます。 同一人物ですから、別人になったわけではありません。 でも別人と思わなければ説明がつかないほど変わったのです。 使徒言行録は彼らが変えられたのは「聖霊による」と述べるのです。 弟子たちの決意や努力だけではなかった。

 彼らの変化のきっかけとなったのは、 言うまでもなくイエスキリストの十字架と復活の出来事でした。 イエスキリストの十字架の出来事は、 弟子達にとって彼ら自身の心の実態を見つめさせられる出来事でもありました。 人はえてして自分自身を理解していないものです。 自分を買いかぶっているのです。 弟子たちは「もし主イエスが十字架につけられるようなことになったら、 わたしの力で先生を救ってあげるのだ・・・」 くらいの気持ちを持っていたのかもしれません。

 しかし実際に主イエスが捕らえられ、裁判にかけられると弟子たちは、 逃亡し、嘘をつき、イエスとのかかわりを否定し、 弟子であることさえ捨ててしまったのです。弟子たちは自分たちが、 ことに及んでそういう類の人間であったと気づかされたことでしょう。 ただ自分がどういう人間であるかは、まず気づくことが第一です。

 自分の存在を脅かすような出来事を前にして、 恐れない人間などどこにもいないでしょう。 ペトロはその後も肝心なところでその信念をぐらつかせる人だった。 けれどキリスト教信仰そのものを揺るがせ、否定することはなかった。 信仰者といってもありとあらゆることに磐石で揺らぐことのない人間になることではないでしょう。 人生に途方に暮れ、迷うことはこの人生から消えることはないのではないか。

 それにしても、それだからこそ、 揺らぐことのない価値観としてのキリスト教信仰を心に確立することは大切だと思います。 私たちがキリスト教信仰に生きることは確かに「わたしの決断」であったり、 なにかのきっかけで教会に行った、 三浦綾子さんの本がきっかけだったという人もいます。 しかし、それは私たちが信仰にたどり着くここの状況と言うことができます。 私たちが信仰にたどり着けたのは、神のみわざなのです。 二度と神のもとに帰ることはないと思っていた弟子たちが、 数週間の時間を経て、聖霊によって全く違う弟子達として再出発できたように、 私たちも新たな生きかたを与えられたのです。

 この世のことはなお不安と迷いの中に見通しがつきません。 だからこそ、キリスト教信仰については、なおいっそう、心をこめてひとすじに生きるのです。

(2013年06月09日 週報より)


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