ウイルヘルム・ホーゼンフェルト

 もう2ヶ月も前のこと私はロマン・ポランスキーが製作した <戦場のピアニスト> を改めてテレビで見たのです。 主人公のウラディスラウ・シュピールマンの息子はかつて九州の大学で教えておられた方だそうですが、 父親の身の上にかつて起こったことは映画を見るまで全く知らなかったとのことです。 ですからあの実話は、わが日本にも全く関わりのない話ではありません。 映画を見ながら私はシュピールマンを助けたドイツ人大尉なる人物に惹きつけられたのです。 映画の本編が終わり登場人物の紹介に、その人が Wilhelm Hosenfeld なる人物であることがわかりました。 こうした時インターネットはかなりのコトを教えてくれます。 元来熱心なカトリック的信仰の中で成長した、 ウイルヘルム・ホーゼンフェルトは1895年ドイツ中部のヘッセン生まれ。 第一次大戦後、教師として、5人の子供を持ち、穏やかな日々を過ごしていたのです。 やがて1939年ヒトラーが突如ポーランド攻略し、第二次大戦が始まるとともに、 彼は徴兵され、ポーランド戦線に送られたのです。 ナチ党に所属はしていたものの、現地でナチのユダヤ人迫害、 ポーランド人への戦争犯罪を目撃する中に、ナチズムに深く幻滅するばかりでなく、 嫌悪すら覚え、複数のユダヤ人救出に力をつくした人であることが インターネットでわかってきたのです。 彼はポーランドの人々への共感をいだきたちまちポーランド語に通じたようです。 ホーゼンフェルトはスポーツ及び文化担当士官としてポーランドで働きますが、 捕虜の尋問にもたずさわります。このことがのちにロシアの戦争犯罪法廷で問われたようです。 ホーゼンフェルトはその時々の思いを妻に手紙で書き続け 「われわれドイツ人は罪責を引き受けないわけには行かない。 その恥と責任を永久に引き受けねばならないし、 ドイツ人としていま町を歩くことさえ恥ずかしい・・・」 とさえ書いているのだそうです。 そうした思いが手の届く範囲の中にあるユダヤ人救出への思いにつながってゆきました。 1942年殺人工場であったトレブリンカ収容所に移送中のレオン・バルムというユダヤ人を、 ホーゼンフェルトは彼が管轄するスポーツ・スタディアムに雇用する形で救出したり、 1944年11 月なかば、市民が強制退去させられ、破壊しつくされたワルシャワ市の中で、 ただひとり飢えと恐怖と極寒の中で隠れ潜んでいたシュピールマンを発見し、 彼をユダヤ人と知った上で食料、衣類、水を与え、 ソ連軍によるワルシャワ解放まで、 約2ヶ月間、シュピールマンが生き残れるように生活物資を残して撤退します。 1945年1月、シュピールマンが解放され、ホーゼンフェルトは捕虜収容所に収監されるのです。 やがて1950年になって戦犯裁判がミンスクで行なわれ、 審理は弁護士なしで一方的に進められた。 判決はホーゼンフェルトに懲役25年が下された。 裁判の直後、ホーゼンフェルトに命救われたユダヤ人レオン・ヴァルムは ホーゼンフェルト夫人をドイツThalau(Kasselの近く)に訪ね、 またワルシャワ在住のシュピールマンにホーゼンフェルトの安否を探るように手紙を出すが、 ホーゼンフェルトは強制収容所の劣悪な環境の中で1952年にその生を終えた。

 けれどイスラエル政府は1953年に <ヤド ヴァシェム> という名のホロコースト歴史記念館をエルサレムに設け、 その一つの働きが <the righteous of the nations−諸国民の正義の人々> なるプログラムで、かつてのナチ時代に、 命の危険をかえりみずユダヤ人救出のために力をつくした非ユダヤ人を発見し、 記憶し、感謝し、万が一その人が困窮している場合は経済的にも支援する制度を創出したのです。 世界中で有名無名の24356人が顕彰され、日本人ではただ一人、 リトアニアで5千人のユダヤ人に命のヴィザを発行した杉原千畝が表彰を受けています。 <ヤド ヴァシェム> は2008年にウイルヘルム・ホーゼンフェルトをこれに認定したのです。 日本の軍人でホーゼンフェルトのような軍人はいたのだろうか。 自国の戦争が明らかに不正で恥ずべき侵略と理解でき、 敢然と自らの生死をかけて中国や韓国の人々を救出しようとした人が何人いたのだろうか。 こうした行動に生きる人は多くは語らないだろうし、 そも国家の方針に楯突くわけだから処罰や処刑されるケースもまれではない。 にも拘らずホーゼンフェルトは手を差しのべた。孤独な正義に生きることは、 神の前に生きることが前提にある。

(2013年05月19日 週報より)


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