十字架の道行きの中で−ヴィア・ドロローサ

 カトリック教会に足を踏み入れると、たいていの教会では <十字架の道行き―ヴィア・ドロローサ> といわれる主イエスが、 重い十字架を負って歩まれたときに出会った人々との物語が絵や彫刻で示されます。 すでに鞭打ちの刑を受け、虐待にやつれた主イエスにとって、 70キロを越すといわれる十字架を背負うことはもはや耐えられませんでした。 何度も倒れこみ、ローマ兵の鞭を浴びせられてもイエスは立ち上がることは出来ませんでした。

 「イエスに死を!」とアジる祭司長、律法学者。扇動され、 のせられて「十字架につけよ」と叫ぶ大群衆。

 しかしそこに登場するのは主イエスに代わって、 重い十字架を背負わされたアレクサンドロとルフォスの父クレネのシモンという人です。 (マルコ15:21) この人はまったく偶然にローマ兵の目にとまり、 イエスに代わって十字架を背負ったのです。クレネとは現在のリビヤです。 ローマ兵の目にはクレネのシモンが日焼けしてたくましそうに見えたのでしょうか。 しかしシモンはこの十字架の道行きの中で主イエスとともに歩んだことが生涯を変えたのです。 シモンの妻とルフォスは後にローマ教会の有力な信徒となったことがローマの信徒の手紙16章に書かれています。 使徒パウロは言葉を添えて「彼女は私にとっても母なのです。」とさえいいます。 決して長くなかっただろうシモンにとってのヴィア・ドロローサ経験は シモンと家族をまったく変えたのです。

 いよいよゴルゴタについて、主イエスが横倒しになった十字架に釘付けになります。 何本もの太い釘が一本一本主イエスの身を切り裂いてゆきました。 十字架に釘付けになるキリストとはもっともキリストらしくない姿と取る人もいるでしょう。 しかし主イエスを釘付けにしているローマ兵に向かって語られた言葉は、もっともキリストらしい言葉です。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分がなにをしているのか、知らないのです。」 (ルカ23:34) この言葉を聞いた人々は電撃に打たれたことでしょう。 主イエスが無実であることはだれの目にも明らかでした。 100万ののろいの言葉がこの死刑囚から出ても、なんら不思議でない状況。 過ちと偽りに固められたインチキ裁判。罵りと恨みの叫びがゆるされるとしたら、 まさにここしかないと思われるその場で、主イエスの口から語られたのは敵対でなく、 許しの言葉でした。この言葉を耳にした人々はこの人を十字架にかけたことを深く恥じたことです。

 クレネのシモン、母マリア、信仰告白をした百人隊長、ハンカチを差し出したといわれるベロニカ、 十字架上で悔い改めた強盗。絶対的に不可能と見える十字架の道行きの中で、 主イエスはそれぞれの人に新しい歩みを歩ませたのです。

 この四月みんなが進級できたわけではありません。 不可能ばかりが目に付いて一歩も足を踏み出せない人もいるかもしれない。 しかしダメだと最初からきめつけないで、キリストが私を新しくしてくださることを信じてみよう。

(2013年04月07日 週報より)


戻る