今週は信徒執筆です

目をさましていること

大澤 信之    

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」
(マルコ14:34)

 イエス様が、受難を前にしてエルサレムにあるオリーブ山の北西麓ゲッセマネの園で 弟子たちに言われた言葉です。

 「イエス様は、どんな人?」と子ども礼拝で聞いたら、 どんな答えが返ってくるかなと想像します。多分その返答の中には、 ゲッセマネの園でのイエス様の「死ぬほどに悲しむ」様子は無いように思われます。 イエス様は、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを一緒に連れて祈りの場に行かれます。 「恐れおののき」「悩みはじめて」最初の言葉を言われます。 そして、少し進んでゆき、地にひれ伏し、「もしできることなら、 この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈り続け」ます。 どれほど「続けて」祈り続けられたのでしょうか、少し進んだ場所から戻ってこられると、 三人の弟子たちは眠っています。弟子たちは「その目が重くなっていたのである。 そして、彼らはどうお答えしてよいか、わからなかった」と書かれています。

 1930年代の初め、ヒトラーの率いるナチス党が選挙で第一党に躍進します。 その後ドイツは独裁政治と世界大戦への道に続く扉を開いてしまいます。 もう後戻り出来ない「選択の時」「変化点」がある様な気がします。 なぜドイツ国民はヒトラーのナチスを選択したのか、 多くの分析がなされていると思いますが、経済が発展しない不景気の時(世界恐慌)、 自国民のプライドが外国に傷つけられた時 (第一次世界大戦で敗戦したドイツの高額な賠償金支払、 因みに支払はナチスにより拒絶されますが、 ドイツ統一後利子支払いを再開してアメリカへの支払完了は2010年10月3日、 他国への債務は2020年まで残っている)、 「世界に冠たるドイツ」という華々しい宣伝の言葉が人々に冷静さを失わせます。 いつの時代でも、自分の国が世界で一番優秀という考えは、 他の国を排除する考えへと変わり易いのです。

 先の選挙争点の一つに、「原子力発電は続けるのか、止めるのか」がありました。 もちろんこれだけが政党を選択する条件であったなら、 多くの人が「原発反対」であったはずでしょうが、この選択枝は、 「景気の良かった日本を取り戻す」「軍隊の力で他国を威圧できる強い日本を取り戻す」 という宣伝文句と一緒に選択枝に含まれた事で、 原発を続ける政党を選択したように思われます。 この選択が後戻り出来ない変化点ではない事を願います。 過去のドイツでも、ナチスが第一党になってから戦争に突入するまでに、 何度か選択のチャンスはあったのです。

 イエス様はゲッセマネの園で、少し進んだ場所から戻って、 寝ている三人の弟子たちをご覧になると言われます。 「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである。」 3度目に戻られると「まだ眠っているのか、休んでいるのか。もうそれでよかろう。」 と言われます。なぜこれほど、弟子たちが起きていることを望まれるのか? イエス様は受難を前に、弟子たちに「悩み」、「苦しみ」、 「祈り」を共有することを望んでおられるように思われます。 まるで人がその友に求めるように、夫婦が求め合うように。イエス様は、 まるで弟子がいないと受難に向かって行けない程に弟子の存在を求めている様です。

 イエス様にとって私たちの存在は、眠っていても気にならない存在ではなく、 共に起きていることを望まれる存在です。 イエス様は私たちに起きていることを強要されませんが、 起きていないと悲しく、辛く思ってくださるのだと思います。 だから私たちは起きていようと思うのです。目が重くなってしまう事があっても、 肉体は弱くても、眠ってしまってなんとお答えしたら良いのか判らない事があっても、 イエス様が私たちを求めて下さるのですから、目を覚ましていたいと思うのです。

(2013年03月17日 週報より)


戻る