<クシャトリア(カースト第二位)とダリット(不化触民)の不思議な融合>

―インド教会の奥深さ―

 先週日曜日の午後、来年のキリスト教一致祈祷礼拝のための準備会が カトリック高幡教会で行われました。この礼拝には毎年特定の国が選ばれて、 その国のエキュメニカルにかかわる諸教会が協力してプログラムが作られるのです。 来年のテキスト作成を依頼されたのはインドの教会です。テーマとなる聖書は ミカ書6:6−8です。テーマの説明を見ると、インドの教会は <全インド・カトリック大学連盟とインド教会協議会> が協力してテキスト作成にかかわったと述べられています。 インド教会がキリスト教一致運動を推進するために見過ごしに出来なかった大きな問題は 「ダリット」と呼ばれる最も貧しく大きな差別を受け続けてきた人々の解放の実現があります。 インドのカースト制度の中で人々は高位のカーストから、 低位のカーストのいずれかに位置づけられます。しかしダリットと呼ばれる人々は、 最も低位のカーストにも位置づけられない、 不可触民(アンタッチャブル)としての位置に縛り付けられているのだそうです。 日本で言えば江戸時代以降の被差別部落に当たるでしょう。 士・農・工・商という身分差のヒエラルキーのさらに下に江戸幕府は被差別部落を置きました。 この人々はひざ下に達する着物を着ることさえ許されませんでした。 職業も限られ、経済的には食うこともままならず、 結婚も部落出身者であることがわかると破談になりました。 人間のくずのように扱われたのです。そうした差別の構造は昭和の戦後社会すら温存されてきました。 ダリットはインドにおいて、そうした日本社会にも通じる差別構造の最底辺におかれていた人々のようです。 そして「2013年のテーマの解説」には驚くべき文章が続きます。 <インドのキリスト者の約80%がダリット出身者と言われています。>

 そこで私は今まで考えもしなかったインドの教会について思いをはせることになりました。 以下は1991年に出版された「アジアキリスト教の歴史」(日本基督教団出版局刊)インドの項−葛西實氏−によります。 記述によれば、何もかも驚きです。 インドのキリスト教の起源は、伝承によればインド南西部ケララ州のトマス教会がその始まりです。 つまりキリストの12弟子の一人トマスはインドに宣教したといわれます。時は西暦52年とまで言われています。 トマスはマドラス近郊のミラポールで72年に殉教の死を遂げたと伝えられています。 このトマス教会の伝承については、当然、歴史学者の間では、問題視されているようです。 とはいえインドのキリスト教徒の中でケララ州キリスト者は440万人、 その中でトマス教会員は250万人を数えるといいます。しかも通常の典礼はシリア語が使われ、 325年のニケア会議にはすでにペルシャとインド代表として出席もしたと記録があるそうなのです。 インド全体に占めるキリスト者は2.6%ですがケララ州におけるキリスト教徒の比率は人口の25%。 『町、村によっては人口の90%がキリスト教徒というであることは特異なことではない。』(同書463p)

 ところでインドでのカースト制度は職業の選別が奥底にあるようで、伝統的には親の職業を、 子は引き継ぐ。変更はかなわない。しかし以前存在しなかったIT産業などには下位のカーストがつくことが多く、 テクノパークといわれるケララ州はインドIT産業のけん引役で、 ダリットの出身者が非常に多いとされています。 社会階層的に極貧の経済状況を押し付けられていたケララ州あるいは他の州のダリットの人たちは 新しい可能性を求めて多くの人々がIT産業を目指し、 インドのIT化は大きく前進したといわれています。 また最近では大統領や判事にも下位カーストがつくことが目立つようです。 トマス教会の代々の会員はカースト第二位のクシャトリアが多く、 同時にケララ州にはダリット出身者の裕福なキリスト者も多い。 現に町村の9割がキリスト者という状況の中で出自(出身の家系)の何かより、 現在向き合っている一人がいかに信仰的であり、 信頼を置くに足る人物かどうかという判断こそ意味あることです。 社会制度や慣習にしみこんだ差別や悪弊を変えることは、 法律をもってしても変えがたい部分もあります。 教会自身がそこに絡め取られている現実もあるからです。 同時にそれを変える力も福音には秘められています。 とはいえ進歩から取り残されているダリットの人々の差別解放なくして インドの教会はありえないというのが今回のテキストです。 強固な岩のように固い岩盤もこうして風穴が開けられつつある現実を見るような思いです。 こうした勇気ある福音の実践に教会が一致を求めて祈りを集めることに感動を覚えます。

 

(2012年12月15日 週報より)


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