今週は信徒執筆です

無題

 芥 初代           

人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう。
                      (創世記2−18)

11月に中学校の同窓会が開かれ、懐かしい人たちに会うことができました。
あの頃から無愛想だった私は教室で談笑することがうまくできませんでした。
今の時代ならもっとキビシイ仕打ちにあっていたかと思うと、恐ろしい気がします。
往復はがきを受け、最初は尻込みしましたが、出席することにしました。

当日、開会ぎりぎりで会場に到着すると
「あ、ハセが来た。ハセ」
「どこにいたの?バセ〜」
「わたしがわかる?」

肩をつかまれたり、頭をなでられたり、顔をのぞきこまれたり、
目が回りそう〜〜。何かにおびえていた気持ちはすっかり忘れていました。
騒騒しい同窓会から帰ってからも、遠い記憶がよみがえり、
どの場面でもひとりではなかったことが次々と思い出されて、
あたたかい気持ちになりました。

行き帰りの道で声をかけてくれたEちゃん。
何かで迷っていると「どうした?」と肩をたたいてくれたMちゃん。
いつも笑わせてくれたHクン。
雨の日の橋の下、なぜか並んでいっしょに川を見ていたAちゃん。
おとなになって失恋したときも、子供を抱いたまま話を聞いてくれたYちゃん。

まだ自転車に乗れなかった私のために放課後の校庭で特訓をしてくれたIちゃん。
彼女は運動音痴だった私のことを、ひどく体が弱い人と記憶してくれていて
「生きてたの〜?体弱かったみたいだから死んじゃったのかと思ってたんだよ〜」
(Iちゃんのおかげでわたしは自転車に乗れるようになったんだよ)

たよりなく、泣き虫だった。おしゃべりがへたで、なまいきだった。
でも、いつも誰かが助けてくれていたのです。
声をかけてくれた友だち、いっしょに歩いてくれた人、話を聞いてくれた友や恩師、
そして家族。
学校にいるときも、教会に来ても、職場に在るときも、家の台所でも、旅先にいても。
過去を思い出しても、そして今も。
助けてくれた人と、助ける人を備えてくださっていた神様に感謝で胸がいっぱいになりました。
助けてもらってばかりいる私。私は誰かを助けることができているのだろうか?

  ?・?・?・?・?・?・?・?・?・?・?・?

つらい思いにいる人の横で知らん顔をしていないだろうか?
話したいことがある人の前で時を惜しまず、聞くことができているだろうか?
自分でいっぱいいっぱいでしかめっ面をしている人に、誰も助けてもらおうとはしない。
最も身近な家族に穏やかに接しているだろうか?

(どうか、神様がこんな私も誰かを助ける者として、用いてくださいますように)
(できれば苦手なことではなく、とつぶやいてしまう私を変えて、信じることで強くしていただけますように)

主の招く声が聞こえてくる こんなに小さな私たちさえも
みわざのため用いられる (讃美歌21−516)

(2012年12月09日 週報より)


戻る