祈りは聞かれる

そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。 だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、 少しも疑わず、自分の言うとおりになる信じるならば、そのとおりになる。 だから言っておく。祈り求めるものはすでに得られたと信じなさい。 そうすれば、そのとおりになる。また立って祈るとき、 だれかに対して何かうらみに思える思うことがあれば、赦してあげなさい。 そうすれば、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをゆるしてくださる。」 <マルコ11:22−25>

 引用したのはイエス・キリストの語られた、確信に満ちた言葉です。 祈りは聞かれるという言葉です。キリスト者の日常の中で、 時に祈りが空(くう)に吸い取られていくようなむなしさに駆られることは少なくない。 しかし私たちの日々の歩みの中で起こり来ることに神の介入、 神の介在を求めないで希望が見えてくることはない。 イエス・キリストによる個々まで明解な言葉は、祈りは聞かれないものという、 私たちの感覚をひっくり返すのです。

 確かに使徒パウロは聞かれなかった祈りについて語る部分があります。 コリント2 12:7節以下です。「私の身に一つのとげが与えられました。」  この<とげ>とはパウロをつねづね苦しめていた病気のようです。 <伝染性の眼病>と説明する人もいます。 宣教者パウロとしてはかなり厄介で不快な病気だったことでしょう。 パウロは必死にこのとげが取り去られるよう何度も祈ったらしいのです。 けれどついにこの病気はパウロの肉体から離れることはありませんでした。 しかしパウロは神からの答えを聞くのです。 『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。 力は弱さにの中でこそ十分に発揮されるのだ。」といわれました。 だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、 むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』(2コリント12:9) これは現象としての肉体の弱さに変化はなかったけれど、 パウロの魂は信仰の勝利にあふれ、祈りは聞かれたとさえいえます。

 主イエス自身もゲッセマネにおいて、「この苦き杯を取り除けてください。」 と一度は祈りました。そしてそれは取り除けられることはなかった。 主イエスは弟子たちの面前で十字架にかけられたのでした。 十字架は聞かれない祈りの<結果>、敗北<そのもの>だったと見る人もいる。 しかし主イエスの生涯はただ十字架に焦点を置いた歩みであったし、 まさに神の愛のすべてが十字架によって地上に実現したのだった。 そして十字架は十字架にとどまらず、キリストの復活にまでつながったのです。

 祈りは聞かれる。私はそう確信してやまない。 むろん、現象として聞かれない祈りもあります。しかし、祈りの実現は神によるのです。 聞かれな祈りは、それ自身神の答えなのです。 そこには深い、人知を超える神の深い配慮がこめられているに違いありません。 心をこめて、思いをこめて、今週も祈りを共にしましょう。

(2012年10月21日 週報より)


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