人間存在とは

 やっと秋めいてきた先週、新聞に伝えられたのは2件の母親による子殺しでした。 9月ひと月だけでも新聞に伝えられるほどの母親による子供の虐待事例は六件ほどあったようです。 中でも10月2日の新聞に伝えられた広島の事例は新聞を読む私の目が涙で曇るほどの陰惨なものでした。 打ち続く虐待でなくなられたのは11歳の女の子。虐待で逮捕されたのは28歳の母親と伝えられています。 練習用のゴム製のゴルフクラブで腹や顔を殴られて命を絶たれたのです。 テレビの事件報道でもこの一件は伝えていました。 そちらによれば亡くなられた女の子は「養育困難」を申し出た親側の要望で 7年間養護施設で暮らしていたとのことです。この子の短い人生を知れば知るほど、 なんという哀れで気の毒な生涯を歩んだ子供かがますます鮮明になります。 司法解剖の結果、からだには以前からの虐待によってできた複数の虐待痕があった。 ごく最近では2009年にも市側に虐待が通報され、 お子さんは児童養護施設に入所させたが昨年親側の希望で家に帰されて、 彼女は再び凄惨なリンチに等しい虐待にさらされ、死に至らされた。

 あまりに多い虐待事件ですが、虐待を行う親はそれなりの理由をあげます。 共通して言うのは「しつけのために、殴った。」というものです。 多くの場合しつけられねばならないのは親です。人は子供が出来ても、 それで親になるわけではありません。ただただ愛されるためにうまれてきたわが子を、 反抗の出来ない自分の所有物として、自分の感情や気分のはけ口として、 怒鳴り散らし、しつけの名目で死に至るまでの暴力をふるう。 なくなったお嬢さんは、11年の生涯の中で7年間を養護施設で、4年間を母親のもとで暴力を受け続けた。

 詩篇の言葉に

「主よ、人間とは何ものなのでしょう あなたがこれに親しまれるとは。
人の子とは何ものなのでしょう あなたが思いやってくださるとは。」
親が子供を自分の所有物かのように思い込み、その生殺与奪のすべてを 自分のもののように思い込んでいるとすると、それはもはや犯罪に近いといわねばなりません。 人は自分が何ものなのかさえ、詩篇の記者が問うように分からないのです。 しかし聖書は応えます。私が生きているのは、私を生かしている神の意志によるのです。 ひとは罪と、醜さと、弱さにまみれています。しかし神はそれらすべてに目を背けることなく、 私たちにその思いと視線を注ぎ続けられます。

 母親の虐待ばかりが世間で注目されますが、父親たちの虐待はそれに輪をかけて、 残虐で陰惨ではなかろうかと想像できます。神を知らない人間存在は、 無論すべての人間がそうだとはいえませんが、落ち始めると、どこまで落ちていくのか、 はかりもしれません。

(2012年10月07日 週報より)


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