今週は信徒執筆です

イエスの癒し

大澤 信之    

 子供礼拝のジュニアクラスは、「日々の糧」の聖書日課に従って、 最近はマルコ福音書から、二つの奇跡物語を学びました。

 一つは5章25節からの、会堂司ヤイロの娘を癒す話の間に挟まれた 「長血をわずらっている」女性の癒しの話でした。 12年間も長血をわずらっていて、多くの医者にかかり、 さんざん苦しめられて、その持ち物をみな費やして、なんのかいもないばかりか、 かえってますます悪くなる一方の女性が、イエスのことを聞いて、 群衆の中に紛れ込み、うしろから、み衣に触ることで、病気が治ったと言う奇跡の話です。

 この女性は、「自分の病気が治った事を、直ぐにその身に感じた」と記されています。 その時を同じくして、イエスも直ぐ自分の内から力が出て行ったことに気づかれます。 群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われるのです。 多くの群衆がイエスを取り囲んで押し合いながら、会堂司の家に向かっている途中の出来事ですから、 弟子たちが「ご覧のとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、 誰が触ったかと、おっしゃるのですか」と言ったのは無理のない事だったと思います。 沢山の人がイエスの着物に触れている状況で、イエスと会話して状況を説明した訳でもなく、 この女性がただイエスの着物に触っただけで、 一方的にイエスの内の力がこの女性に流れ込んで奇跡が起こったのです。イエスが、この女性を哀れんで癒されたのでは無く、イエスも思いもよらない状況で奇跡が起こったように読めます。ですからイエスはこの女性を探し出すことが出来ずに、「見回しておられた」と聖書は書いているようです。もちろんイエスは、この忙しい状況で大切な力を無断で取ったとも言える女性を叱りません。群衆が聞き耳をたてている中で、ひれ伏して全てをありのままに語る女性に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われるのです。イエスの奇跡には、宗教的な方程式が成り立たないことを再認識した瞬間でした。それにつけても、イエスのこの女性に対する「娘よ」という言葉には大変な優しさを感じました。女性が何歳であったか不明ですが、女性の今までの人生を、癒しの奇跡と同様やはり一瞬で知ったイエスの言葉だと思いました。

 二つ目は、7章24節からの、群衆から隠れるために行った「ツロの地方」 で異邦の女性の娘を癒した話です。イエスの足元にひれ伏し「娘の悪霊を追い出してください」 と願う女性。イエスは、この女性に「まず子供たちに十分食べさすべきである。 子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」と答えるのです。 この女性を試すためにこのように答えられたのだと読めますが、 それにしてもキツイ言葉だと思います。 小犬扱いされたこの女性は「でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは頂きます」 と答えて、イエスから「その言葉で、十分である。お帰りなさい。 悪霊は娘から出てしまった」と癒しを受け取るのです。イエスの癒しの拒絶という反応を履返した、 知恵に満ちたこの女性の返答に母親の力強さを教えられました。

 マルコは、この二つの出来事の間に、郷里での出来事を挟んでいるように思われます(6:1から)。 郷里の人々の「この人の事なら知っている」という思い込みが、 「そこでは力あるわざを一つもすることでできなかった」というように、 イエスを拒んでしまった様子を語っています。

 イエスはこうであるはずだ、神様はこうであるべきだと言った思い込みを頑なに押し付けて、 そうでなければ私は信じないとする条件付き信仰ではなく、 無条件にイエスを信じる事の力強さを知りました。

(2012年09月16日 週報より)


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