「あなたは私の嘆きを数えられたはずです。 私の革(かわ)袋(ぶくろ)に私の涙を蓄(たくわ)えてください。」
    詩篇56:8

 聖書には <いつも喜んでいなさい。どんなときにも感謝しなさい。>  とすすめられています。でも同時に、 聖書には数多く <涙の経験> が語られています。冒頭の詩篇の言葉は、 通常であれば喜びのワインをなみなみと注ぎ込まれる革袋に、 それをいっぱいに膨らませるほどの涙が注ぎ込まれる経験がつづられています。 マタイ受難曲のペトロが主イエスを三度否んだという場面で奏される ヴァイオリンを主音として奏される39曲目のアリアは心を打ちます。 ペトロは失敗の人でしたが、涙の人でもあったでしょう。 ナルドの香油を注いだ女性も涙で主イエスの御足をぬらしました。 アダムとエヴァだって、みずからの堕罪とそこから波及した カインとアベル事件を前に、ことの原因は自らにあることを知りつつ、 どうすることも出来ない罪の結果の重さにただただ涙を流したことでしょう。 イエス・キリストご自身も涙の人でした。

 確かに喜びの涙というものもあります。 しかし単純にうれしいのであれば涙は不要です。そこに至るまでの苦しくも、 つらい努力や克服の歩みを経過したからこその喜びが涙をもたらすのです。 けれどひとが深い悩みや問題を抱えるとき、 それまで友人として共に歩んできた人が去ってゆくことがあります。 そうしたときこそ友情や交わりの真実があらわになると言うことが出来ます。 確かに人が単純に求めるのは楽しみだったり、喜ばしいことこそ歓迎します。 ですから楽しみを与えてくれる人こそ、友として歓迎されるでしょう。 尽きるところひとは孤独です。自分自身がさまざまな問題を持ち、 課題に迫られているのですから、問題を持つ人、苦しみの中にある人まで、 手を出すことが出来ず、なにかの渦中にある人差し迫った問題の中にある人は、 敬遠され、交わりから除外され、切り捨てられます。 その人をめぐる集団が意図的に交わりから断絶することも時としておこります。

 しかし主イエスは悲しみを心に持つ人、集団から断ち切られんとする人、 痛みを持つ人にみずからすすんで近づかれます。主イエスは町から町へ、 村から村へ渡り歩きながら、みずから涙を流しつつ、 人々の涙をぬぐい取られたのです。主イエスは人の心から心へと歩まれ、 傷ついた心、痛む心、孤独の心を癒し続けられました。 人も他者に共感する心がないわけではありません。 誰でもその人なりに他人への思いやりがないではありません。 でもすでに傷ついた心で、何が可能になるのでしょう。 他人を助けるつもりではじめたことが、 逆に人を傷つける結果になることがどんなにしばしばおこるでしょうか。 まさにイエスこそすべての人の訴えを取り上げ、人を助け救うのです。 悩み多い、希望の見えない時代に、 あらためてこの主イエスに心の底からの信頼をささげよう。

(2012年04月15日 週報より)


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