悔いる心

  受難節も、来週主日が受難週礼拝をむかえ、キリストの十字架の出来事を いっそう深く思うときでもあります。十字架は罪の許しの原点であり、 罪の許しはわたしたちをつくりかえ、神とは途方もなく遠く離れたわたしたちを、 神の御子ころにかなった生きかたを可能にしてくださるのです。

 詩篇51篇を書いた詩人はこの罪の許しを 「清い心を創造し」 「新しく確かな霊を授け」 「聖なる霊を取り上げないで」 「自由の霊をもって支えて」と表現します。 神からは遠く離れた罪を犯したこの自分が、神に立ち返り、 神に生かされ、神のために可能なかぎりのことをなす人間へと、 創りかえられるように祈るのです。

 イエスキリストにあって新しく造りかえられた人は、 神の前に<打ち砕かれ、悔いる心を>をもって、 立ち上がろうとするのです。それは律法主義や、 功績主義のような <自分は神のため、これだけのことを、してやっている> という世界を許さない純粋な心のあり方を生み出すのです。

 罪というものは、物質的、精神的、霊的な貧しさの中から、 発生するものではなく、むしろそうした価値に恵まれた心の中から、 人の心に現れるものでもあります。どんなに貧しい心、魂、肉体であっても、 これを神のものとしてわたしたちは差し出すことが出来ます。 そのとき、神はわたしたちの全存在を受けられるのです。

「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、 あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」 (ヨハネ1 1:9)

 詩篇51:19にはこういわれます。

「打ち砕かれ悔いる心を   神よ、あなたは侮られません」

(2012年03月25日 週報より)


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