「きょう」という日。

 この日を、人々はさまざまな思いで迎えていることです。 ただのくり返しの時と、何の期待感も感激も持てない人。 「ディズニーランドに行く朝だ。」と嬉しさにはじけそうなこども。 ふつふつと煮えたぎるような怒りや恨みをこころに宿しているひと。 先週ある教会の前を通りかかった。 以前からよく手入れされているという印象はもてない教会だったが、 数年ぶりでその前を通って、その荒れ果てた有様に心がいたみました。 あまりに多忙で、手が行き届かないという程度の問題ではなく、 すさんで荒れ果てたそのありさまは、管理者の心を映し出すようで、 恐ろしげでさえあったのです。 そこでも、今朝、礼拝が行われているのだろうか。

 ことし、わたしたちは1000年に一度あるかないかというほどの 巨大地震を経験し、またこれに起因する津波、 そして原発事故による放射能汚染が続いています。 一瞬にして、途方もない人の人生が失われてしまいました。 地震は場所を選ばず、今後どこで、どう発生する、かもしれない。 ひとは自分自身の人生をどう考えるかが迫られています。 地震のあとで、結婚する人々が増えたとも伝えられています。 この<きょうという日>をいかに生きるか。 どう考えるかをわたしたちは、迫られているといえます。

 わたしは祈りの中で <きょうという日を、与えられた最後の日であるかのように> というフレーズを時折使ってきました。 きょう、わたしが出会う人々に対して、これが最後のわたしの姿かもしれない。 それが、心すさんだ、怒りに満ちた、恨みこもった姿であってほしくはない。 明日を知らない生身の人間に過ぎないものとして、現に震災を経験し、 きょうという日が最後となってしまった多くの人々を前にして、 きょうという日を神に捧げて、終末論的に生きる日を過ごしたいのです。

 同時に、きょうという日は、人生で最も幸せあふれる日なのです。 なぜなら、明日は今日よりも老いているからです。今日より若い日はない。 今日は人生でわたしが最も若い日だからです。しかも、きょうの私は、 今まで生き、学び、身につけた経験、知恵と 多くのかけがえない知人・友人の友情にも恵まれています。 だから今日ほど幸せあふれる日はないのです。 むろん人生には自分にとってかなり不都合なことは常に起こります。 また、他人もこちらの都合で動いてくれることはないでしょう。 社会には、社会を動かす巨大な動力が働いているのですから、 そこに自分の都合だけを願って自分の思うままの出来事を願うことは 間違っています。

 でも、やはり、<今日があたかも、人生の最後の日であるかのように>  そして <今日が最も幸せの日>とうけとめれば、 今日はそのような日になるのです。わたしたちを世に送り出してくださった神が 「神はこれを見て、よしとされた。」 「見よ、それは極めて良かった。」 といわれるほどの、この日だからです。

(2011年11月20日 週報より)


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