今週は信徒執筆です

日曜日

大澤 信之    

 東京電力管内の原子力発電所が一部停止したことによって発生した 夏季電力不足によって、管内の企業は25%以上の節電が義務付けられました。 私が働いている会社では、この義務を重く受け止め、 25%以上の節電をする事となり、40%節電と決めて、 7月から9月の間だけ土曜、日曜、祝日も就業日とし、 2交代で休みを取る体制に変更しました。 朝7時から夕方18:20を就業時間にすることで、交代で減った就業日数を補充します。

 この影響で、私は教会の礼拝に参加出来ない日が3ヶ月続くことになりました。 この日曜日が無いと言う経験は、幸いな事に2ヶ月に縮まったものの、 教会の礼拝に通い出して初めての経験でした。この機会に日曜日について 自分なりに考えてみました。

 インターネットによると、曜日としては、日曜日は一週間の中の一日で 土曜日と月曜日の間の曜日であり、七曜(しちよう)とは、 肉眼で見える惑星の火星・水星・木星・金星・土星と、太陽・月を合わせた 7つの天体のこととありました。日本における「休日」という意味では、 1876年の「日曜日導入」で市町村役場、初等学校などを通じて 地方に普及したとありますが、それまでは五十日(ごとおび)の翌日と朔 (ついたち:月の初日)を公休日としていたようです。 しかし人口の大多数を占めた農家には農作業を休む日として毎月定例の 「市」が立つ日、「講」の集まりがあるほかは、毎週の定休日は無く、 むしろ農繁期には家業を手伝わせるため学校も休校したという説明がありました。 世界的には1802年のイギリスにおける世界初の「工場法」や、 日本における1947年労働基準法が、その発端であり 労働者の権利として主張される中で、社会人が日曜日に休む習慣が 日本でも普及したと言う経緯があるようです。

 上記の労働活動の結果として勝取った休日という意味では、 社会人が明日からの激動の労働日に備えるための日となるでしょうし、 家族があれば、一緒に時間を過ごす日曜日は、心が落ち着く日であり、 和みの日と言えます。しかし、日曜日が単に「休む日」と言う定義であれば、 何も日曜日で無くても良い事になります。

 クリスチャンにとって、日曜日はイエスが復活した日であるから 特別な日となりますが、そこには休息を取ること以上のどの様な意味が あるのでしょうか。土曜日と日曜日の違いは、 休みの最初と最後という違い以上のなにがあるのでしょうか。 それは日曜日に続く「クリスチャンが一人でいる日々」 に備えるための日であるように思うのです。日曜日とは、日曜日の前の日々において、 自分がクリスチャンとして一人であった事を思い知る日であり、 この一人であった自分が、 日曜日には交わりの中で生きる事が許されている事を心から感謝する日であり、 この日曜日があるからこそ、後に続く日々の中で、 クリスチャンとして一人でいることができると確信する日が共同体の日曜日であり、 だからこそ土曜日以上の意味があると思いました。

「一人でいることの出来ない者は、交わりに入ることを用心しなさい。 交わりの中にいない者は、一人でいることを用心しない。 キリスト者の家の交わりにおける他者と共なる日に続くのは、 各人が一人でいる日である。それはそうでなければならない。 一人でいる日が無ければ、他者と共なる日は、交わりにとっても、 個人にとっても、実りの無いものとなる。」(共に生きる生活、ボンヘッファー)

 過ぎた二ヶ月間の「日曜日が無い日々」は、日曜日に休めない日々と言うより、 交わりの中にいる事が出来ずに、一人でいる事の辛さを思い知る日々であり、 キリスト者の交わりに参加できる「喜びの重み」を感謝する日々でもあった と思い返しています。

(2011年09月11日 週報より)


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