「週末」(ベルンハルト・シュリンク)を読みました。

 上記の本が出て、著者に惹かれていくつかの本屋めぐりをして やっとこの書物を探し出して読みました。ベルンハルト・シュリンクは 前作<朗読者>が、「愛を読む人」として映画化され評判になった本の著者です。 「朗読者」は16歳の少年が、ふと出会った20歳以上も年上の女性と 恋愛におちるストーリーですが、彼女がかつてアウシュビッツの看守であったことが 判明し、戦争犯罪を問われる物語でした。比較的単純な物語として描かれていました。 今回の小説「週末」はかつて1960年代から70年代にかけて、 当時の西ドイツで頻発した学生を中心とした若者達のテロ実行者のその後を 描いています。主人公はイエルク。24年の服役を終えて、 大統領恩赦によって釈放されるところから始まります。 彼は<革命のために>かつて要人を誘拐し、殺害し、 社会に恐怖を与えたテロリストでしたが、長い刑務所生活ですっかり年老い、 弱りはて、さらには前立腺がんを負って、かつての輝きはすっかり影を潜め、 過去に犯した出来事に向き合っています。 釈放されたイエルクを迎えるために姉のクリスティアーネが 今はかなり老朽化したかつての貴族の別荘に学生時代のイエルクの友人達を ある週末に招き、時を過ごし、議論を戦わすという物語です。 登場者たちは、クリスティアーネと同居している50を過ぎたマルガレーテ、 クリスティアーネとかつては恋仲だったジャーナリストのへナー、 イエルクの弁護を果たしたアンドレアス、ドイツ語、英語、美術の教師である、 未婚のイルゼ。彼女は若い頃イエルクに惹かれていた。 どうイエルクの半生を受け止めるかで、必死に小説を書き続けている。 父親が歯科医だった、歯科技工士のウルリッヒ。 ほかの人々のような知的な職業でないことに多少気後れを感じている。 その娘ドーレはイエルクに性的関心を寄せるが、当然にべもなく拒絶され、 怒る。フェルディナンド。じつはイエルクの息子である。 フェルディナンドはイエルクが獄中に居るときに生まれた。 母親は妊娠、出産をイエルクに知らせず、その後、自殺した。 そしてこの小説でなくてはならないキリスト者というか、 女性牧師―立場は主教であるカリン。カリンも夫にもいえない 若き日の心の痛みを抱えている。なおほかにも多少の登場者が次々と現れます。

著者は1944年生まれですから、私とは同世代で、父親は戦時中、 反ナチスをつらぬいた告白教会の牧師で、戦後はハイデルベルク大学で 教義学の教授だった方です。ベルンハルト・シュリンクはそうした 信仰の家庭に生まれ育ち、自身はハイデルベルク大学、フンボルト大学で 法律を修めたと紹介されています。そのせいでしょうかこの本は緻密な 構造物のような物語仕立てで、静かにそれとなく語られる登場者の言葉が 重要な意味を持ちます。私はこの本を二度精読しました。 それほどこの本は一つの視点を持たないと分かりにくい部分があります。 その視点とは、人間がいったん犯した罪はどこかで許されうるのか、 そして犯罪への償いは可能かという重い問題です。これは前作のアウシュビッツの 看守だったハンナがどう戦後を生き、どう最期を遂げたかにも通じています。 小説では登場者達の現在や過去の恋愛、その関係が描かれますが、 根本はキリスト教信仰をベースにした問いかけだと思います。

罪といえば、時折、罪を犯すわれわれは、自分の罪を矮小化し、 軽く見ることが通例です。イエルクも言います。 『俺はすべてを覚えているわけではないし、たくさんのことを忘れてしまった。 だが、すべてを償ったんだ。』(215p) その上、キリスト者を自称する人はけっこう簡単に次のように言うのです。 <神さまは私を許してくださっている。> 周囲にいる人々は償いどころか、神の許しさえありえないと感じているのです。 でも本人は平然と私は神に許されたと言い放ちます。 現実に似たようないくつかのケースをわたしは見ています。 けれど根本的にいったん犯された罪は消えることはないのです。 一時の過ちでも、テロで殺された人は、生き返ることはありません。 ことの大小を問わず、罪は許されざるものなのです。 ですが到底許されざる罪を、神がお許しになるというのであれば、 人は、その後の日々を胸をたたきながら、償いに生きるべきなのです。 ところが人は、神が許されたのだから、何もかも終わったものと受け止めるのです。 それは日本の戦争責任問題や最近野田財務大臣が言った 「もはやA級戦犯は、戦犯ではないという」という発言にも現れています。 ドイツにおいては60年代、70年代のテロを経験した人々が、 彼らが生まれた頃の1930年代、1940年代の国家テロで犠牲になった人に どう向かい合うべきかをあらためて問うています。 より良い現在そして未来を築くためには、過去を問い直す以外にありません。 個人であれ、国家であれ、苦々しさのある過去を見つめなおすことは やはり困難なことです。あえていえばそのためには正しいキリスト教信仰が 求められます。 一方に信仰が罪を隠蔽するために用いられるアヘンと化す道も あるからです。

(2011年08月28日 週報より)


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