「神はわれらの避け所また力である。悩めるときのいと近き助けである。
この故に、たとえ地は変り、山は海の真中に移るともわれらは恐れない。・・・
万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。」
 (詩篇46篇)

 東京は被災地ではない。しかし人々の心は<被災地心理> とでも名づけられる心向きです。ガソリンスタンド、スーパーマーケット、 いずれも途方もない数の人々が押しかけます。TVニュースでは1リッター200円で ガソリンを売った店のあることが伝えられました。それでも人々は給油したいのです。 東京以西に脱出する人々のあることも耳にします。一方で、全面的な核汚染の可能性が ゼロになったわけではないので、かつての映画<渚にて>の日本版が出現しないとは、 化学音痴の私がいえるわけはありません。しかし世界中に広がった原発と核武装し た軍事基地がある限り、核汚染は世界の問題です。ですから核廃絶と原発の全面停止が なされないかぎり、安心できるところはどこにもないというのが事実ではないでしょうか。

 けれど今は、そう決まったわけではありません。危機は残っているが、 解決に向かっているようだ。だからこそ被災地心理にパニックすることはない。 でもお隣が買い物袋4つも抱えて帰ってくると(これは事実です。)、 こちらもそうしないと明日がどうなるかわからないと不安になります。 被災者心理はインフルエンザウイルスのように伝染・伝播して、 不安心理だけが煽られるのです。

 将来的にはどうかは知りませんが、少なくも今は、東京は<被災地>ではありません。 にもかかわらず被災者<心理>だけを先取りするのは、意味あることではありません。 加えて、わたしたちはキリスト教信仰を生活の信条とします。神はときに、 わたしたちの意向どおりに行動してくれないこともあります。しかしわたしたちの意向・願望が 必ずしも正しいとは限りません。人は抑えがたい自我や欲望の結果、 ふと自分自身を見失っていることもあるのです。ですから願いが通らないことが 結果として自分を益することも大いにあります。そして神こそ究極的なわたしたちの 救い主です。人生を左右するような人生の曲がり角で、神はわたしたちの守り手です。 キリスト者は人生をふりかえって、あの時神が私に恵みを下さったと 覚える出来事や瞬間があるものです。

 ですからわたしたちは風に揺らぐ葦の様に、風にそよぐ風評に吹かれずにすむのです。 被災者でもないのに気持ちばかり被災者感情に取り込まれたりはしないのです。 不安になるなら、その時こそ祈るときです。不信がよぎるならいっそう信仰あつく 生きられるように、心を決めるときです。

 とはいえ、今回の原発事故がまだ、カタストロフ-破局に行かないと 決まったわけではありません。原発事故は何があっても起こしてはならない事故であり、 今回の事故がチェルノブイリに次ぐ事故といわれるゆえんでしょう。だからこそ 原発については多くの反対があったことですし、反対には国家権力を行使して、 反対運動を封じてきたと聞きます。今回の事故を心配して海外の知人が突然メールを よこしたり、娘を通して案じる思いを伝えてくれました。ただ、今後の推移で、 もし万々一、破局が訪れたとしても、私は由木を離れることはしまいと、 今、思っています。私にとって由木は神が導かれたところですし、 ここ・こそ、骨を埋めるところと思い定めて28歳の私が この場所に赴いたところだからです

(2011年03月20日 週報より)


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