道を歩く

 当然のことながら、歩くということは、人として活動するためには、 かなり大切なことです。自分自身が病気や事故で突然歩けなくなったとき、 年老いた親が歩けなくなったとき、歩くという行動が、筋肉、骨格、脳による大変に複雑で、 絶妙な人間の行為であることに気づきます。 歩くことはときおり人生を生きることにもたとえられます。 「道を踏み外す」「道を誤る」「出世街道を真っ直ぐに進む」などなど、 別に国語辞書をひらくまでもありません。

 私は歩くことが嫌いではありません。東村山市廻田に教団の事務所がありますので、 時折会議や打ち合わせ等で出かけなければなりません。 用事を終えて季節の良い、時間の制約のないときは、 東村山から立川・国分寺・府中まで歩くことがあります。 内にこもりがちの生活でもあるものですから、 すがすがしい空気を吸い込んでの社会勉強にもなります! できれば一度新宿から歩いてみたいとひそかに思っていますが、踏み切る勇気が出ません。

 毎日、愛犬のコタロー(迷い込んで飼うことになった犬の名前です) の散歩をします。 朝晩、雨の日も、嵐の日も、基本的に朝は連れ合いが、夕方は私が連れ出します。 コタローのおかげで、随分多くの見知らぬ方々と知り合いになりました。 私一人で歩いていれば、白髪の中年男に声をかけてくださる方など、 誰一人いないでしょうが、コタローのおかげで、やっと歩き始めた幼子から、 私より先輩とお見受けする方々まで、話しかけてくださいます。 道の歩き方も様々です。車椅子を押して、談笑しながら歩く近所のご家族。 ハイヒールの靴音をカツカツと響かせて歩く若い女性。 タバコを持ちながら先を歩く中年男。中にはビール缶片手に飲みながら歩く手合いもいます。 こうした姿は、この辺では昔はあまり見ませんでした。

 犬の散歩ですら、暴走気味の自転車を避け、歩道の状況を判断しながら、 周囲への多少の注意は欠かせません。 あるとき、向こうから一人の青年が神経質そうに歩いてきました。 普通なら私とコタローはその青年に道を譲るはずでした。 ところがその時丁度、コタローは、雑草のわきでもようしていたのです。 コタローは前立腺肥大症の老犬です。いったん始めると、 いつ終わるかわからないと思うほど長くかかります。(すこし極端に言えばですが・・・。)

 くだんの青年は、早くそこをどけ!といわんばかりに神経質そうに舌打ちを連発しながら、 われわれの前から動きません。遊歩道は狭くないのですから、 いくらでも迂回できるスペースはあります。でも彼は、われわれの前から動かないのです。 しかし、コタローは右足を上げ、疲れると左足をあげ、また右足を上げ、 その最中なのです! ついに青年は「チクショウ」といいながら我々を避けて通り過ぎていきました。 彼とは二度と会う機会がありませんから、たまたま遭遇しただけのことだったでしょう。

 世の中には「もう、一歩も退けない。」と思い込んでいる人は、 意外に多いのかもしれないのです。コンビニや食堂の入り口で、 私は出来るだけ譲ろうとします。不思議なことに譲ろうとすると、 逆に譲られるということもよくあることです。<自分はぜったいに弱みを見せまい。>  他人との関係で一貫して <退かない・譲らない>  と続けていたら関係はやがて破綻するでしょう。 少なくもそんなところで頑張ることは、つまらないことです。 でも頑張らねばならないこともあるかもしれません。 「はっきり言っておく。私の兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、 わたしにしてくれたことなのである。」 <いと小さき者への愛>  ここでこそ頑張らなければならないのに、頑張れずに挫折したり、 手を出すべきところで、手も足も、言葉さえ出せない自分の姿に、あの青年の姿が重なります。 ずいぶん前の出来事なのに、まだ忘れられないでいます。 忘れてはならないのかもしれません。

(2010年10月17日 週報より)


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