ぶどう酒がなくなったとき

 イエス・キリストがおこなわれたといういくつもの奇跡の中で、 ヨハネ福音書が第一にあげているのはカナの結婚式において、膨大な量の、 しかも最良のワインを造り出したという奇跡です。主イエスは <二ないし三メトレテスの水が入っている6つの水がめの水を、最上のワインに変えられたのです。> 1メトレテスとは聖書巻末の度量衡に39リットルと書かれていますから、 二メトレテスなら468リットル、三メトレテスなら702リットル (750mlの普通サイズのビンなら936本ほどの分量です!) 主イエスは最後の晩餐においても弟子達とワインを酌み交わしました。 ワインは主イエスの生涯で特別な意味を持っていました。

 イエスの母マリヤは結婚式の最中に、ワインがなくなった事実を知って、 イエスに告げたのでした。「ぶどう酒がなくなりました。」 聖書においてワインは喜び、幸せを象徴する言葉です。 結婚式は幸せの頂点のとき、ワインは幸せそのものを表現するのです。 いつの時代でも、人は結婚に幸せをこめ、祈りをこめて、結婚生活に乗り出します。 けれど、やがてもはや結婚生活が幸せとは無縁になってしまい、 二人が出会ったことすら悔いる人。 さらには配偶者への保険金殺人などが時折伝えられたりすらします。

 <ぶどう酒がなくなってしまいました。>  これは結婚生活で人がふと気づく現実なのかもしれません。 いなくなってしまったら、途方に暮れるほど寂しくなるのに、 そこにいるときには少しも大切に出来ない。 尊敬をはらいたくても、何もかも知ってしまった今は、すこしもそんな気にはなれない。 「亭主元気で留守がいい。」その逆もあり。 そこにある限りない距離。結婚生活にワインは空瓶ばかりで、 かつての芳醇な香り、喜び、味わいは乾ききって、憶い出の彼方にあるだけです。

 母マリアは主イエスに「ぶどう酒がなくなりました。」と伝えました。 ワインがないのなら、酒屋に走ればそれでいい話です。 でもやはりそんな類いの話ではないのです。 結婚式、結婚生活でワインがなくなったときには、主イエスのもとに行くべきなのです。 手軽にワインを調達してそれで済む話ではありません。 心はずんで結婚した若者達が、10年、20年そしてさらに時を費やして、 彼らの結婚生活からワインの喜びが消えていくのです。 つまり関係は長い時間を費やして、ひずみが進み、疲労亀裂がはしっているのです。 これを修復するのには同じ年月をかけた努力がいるかもしれない。

 だからマリアは主イエスにお願いしたのです。 <結婚は両性の合意>で成立はしますが、神の介入を仰がなければ、 豊かで、芳醇なものに届くことは出来ないのです。 ですからカトリック教会では、洗礼や聖餐とともに結婚はサクラメントのひとつです。 ワインは飲み続ければやがてなくなるのです。 だれしも<ぶどう酒がなくなった>といわざるを得ないときがめぐってきます。 だから、主に、正直にお願いしよう。あなたのワインをください。 主イエスのワインは最上のもの。 しかもふんだんに、飲みつくせないほどのワインを、主は用意してくださるのだから。

(2010年09月26日 週報より)


戻る