熱心と熱狂の間

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。 自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして捧げなさい。 これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)
 <なすべき礼拝>と新共同訳で訳されている言葉は、口語訳では <なすべき霊的な礼拝>と訳されています。ところがこの<霊的な>という言葉は、 さまざまな言葉の広がりを持っています。ギリシャ語聖書では logikos  <理屈のとおった、理性的な>が本来の言葉です。 New English Bibleでは worship by mind and heart <知性と心による礼拝>と訳されます。

 たしかに〔信仰〕と〔理性〕は水と油のような関係と言うことができるかもしれない。 おうおうにして信仰的であろうとすると、理性的な部分は隠れるでしょうし、 理性的であろうとすると信仰的な部分は弱まるかもしれない。 けれどキリスト教信仰を生きるということは、 この相反する水と油のような関係にあるかもしれない〔信仰〕と〔理性〕を、 車の両輪としてコントロールしながら前進することです。 キリスト教信仰が<非理性> <非知性>であるところに成立すると考える人が 少なくないのです。でもパウロが書き残したローマ書の言葉からすると、 霊的=熱狂的ではなく、霊的=理性的なのです。 たしかに教会を指導する人々にとって、教会員が熱心で、熱狂的であってくれれば、 指導者の言葉には、より従順で、集会に熱心に集い、 大いに献金をしてくれるという状況は、好ましいでしょう。ですから、 教会指導者は信徒が従順で、熱心で、より熱狂的になることを期待するでしょう。 けれど聖書は、知性抜きの熱狂的信仰を勧めないのです。 冒頭のパウロの言葉によると、 霊的な礼拝とは理性の裏打ちに支えられていなければなりません。 しかし一方で理性的でなければならない人間存在は、 たやすく集団的熱狂主義に吹き飛ばされることがあります。 かつてドイツの人々はなぜヒトラーの言葉に熱狂させられたのでしょう。 同時代の日本も、戦勝気分に踊らされました。

 現代という時代は、人々が熱狂的になることをさそいます。 テレビに映るロックコンサートは、人々が熱狂し、ウエーブし、一見、宗教じみています。 スポーツも、政治も、時に人々を熱狂へと誘い込みます。 パウロの言葉は「むしろ心を新たにして、自分を変えていただき、 何が神の御心であるか、何が善いことで、 神に喜ばれることであるかをわきまえるようになりなさい。」とつづきます。 ひとは熱狂や、集団や、時代精神で簡単に自分を失います。 だから神の前に出て確かな自分を造っていただかねばなりません。 感情や熱狂に陶酔しない信仰的、理性的生き方 −何が神に喜ばれるのかをわきまえ知る−生き方を身につけたいものです。 信仰が迷信やまじないに落ちない生き方、 理性が人間的冷たさに曲がらない豊かさを与えられたいものです。

コリント2 14:15 「ではどうしたらよいのでしょう。(私は)霊で祈り、 理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性で賛美することにしましょう。」

(2010年04月25日 週報より)


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