こころ乾く時代に

 ごく最近の新聞記事ですが、高齢者による2件の自殺と心中が伝えられました。 一方は大阪で、80歳代の姉と妹が、 自宅にしていた住宅の庭で焼身自殺を図ったというものでした。 遺体は損傷が激しく性別を判別することすら難しいほどの状態だったというのです。 自殺の引き金になったのは、自宅のあった場所は借地で、この10年土地代が払えずに、 二人は退去を求められており、 数日後に、裁判者による強制執行が予定されていたのでした。 思いつめた二人の老女がとった道は焼身自殺だったというわけです。 そのすぐ下の欄に報じられていたのは埼玉県在住の夫婦。 ふたりとも78歳で、マンション7階に住んでいた。 妻は認知症と心臓をやみ、夫は介護に明け暮れていた。 忍耐の限界状況を超えてしまったのだろう、夫は妻をしめ殺し、 自らのくびと手首を切ってコト切れていたのです。

 どちらの姉妹、夫婦にも、長い長い歴史があったはずです。 20代には若さに輝いていただろう、でも国は戦争にのめりこんで行った。 やがて戦況が傾いて、食べ物は白米から、芋に変わっていった。 戦後の物不足の時代。ことによったらその中で子育てに追われていたのかもしれない。 やがて多忙ではあったけれど、生活は少しづつ安定していった。そして老年期を迎え、 バブル崩壊と共に、一方は終の棲家として一軒の家を借地の上に建て、 他方の夫婦はマンションを買った。 新たな場所で、幸せな余生をと心から願ったに違いない。 しかし最後に迎えたのは「焼身自殺と心中死」でピリオドを打った4人の人々。 そこまで追い込まれていった人生を思いやるとなんと悲しいのだろう。 ただ、そうした可能性を持つ予備軍のような人々は少なくないかもしれない。 経済的に行き詰ったり、精神的に追い込まれたら、 そうして人生を終えてしまおうとする人々は少なくないのではないか。 日本は高齢者の自殺率が突出して高いと聞いた。

 さて、人間の問題は時代や民族を超えて共通した面を持ちます。 かつて預言者アモスが活動した紀元前10世紀のイスラエルでは、 国内的には支配階級の腐敗や、不公正な裁判、贈収賄、 弱者の搾取、道徳的腐敗が横行しました。 社会の指導者は 「正しい者靴一足の値で売り」(2:6) 祭司は 「科料として取り立てたぶどう酒を神殿の中で飲む」(2:8) 「父も子も同じ女のもとに通い、わたしの聖なる名を汚している。」(2:7) また商人は 「枡を小さくし、分銅を重くし、偽りの天秤を使ってごまかしを行う。」(8:5,6) その時代の選民イスラエルのあり方は目を覆うばかりのものがあります。

 けれどアモスはそれらの腐敗に隠されている根源的問題を指し示すのです。 「主なる神は言われる。私は大地に飢えを送る。 それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、 主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」(8:11) 当時のイスラエルにおいては、神に選ばれた聖書の民として、たがいにおもいやり、 支えあう信仰共同体が生きているはずでした。 しかし、金持ちは、量りと枡をごまかし不正の商売を働き、 貧しい人々を靴一足の値段で売り飛ばし、祭司はその職を汚したのです。 神の民であるはずの人々が神の言葉を聞くことに いささかの飢え渇きを持つこともなくなっていました。 神の言葉を聞くことに、何の必要も感じなくなった神の民。 やりたい放題の悪徳と罪とどめるものはなかったのです。 そこに他者への思いやりは消え、共同体は形骸化してしまったのです。

 現代の日本において、もっとも基本の家族共同体も壊れかけています。 21世紀の日本。冒頭に伝えられた高齢者の死は氷山の一角かもしれません。 でも、教会の交わりが、こうした孤立する社会の中で、互いに心つながれていくなら、 規模は小さくても、存在は尊いのではないでしょうか。 「あなたは決して忘れられていない。」 「神と共に、わたしたちもあなたへのケアは忘れていないのだ。」 そうしたサインがあるときに、自殺や心中という不幸は避けられるような気がします。 神の民は神の言葉を聞かなければなりません。これを人に伝えねばなりません。 数の上ではたとえどんなにわずかであっても、信仰者が神の言葉に生き続けるならば、 神の救いが途切れることはない。そう信じます。

(2010年02月21日 週報より)


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