「言葉」
大澤 信之聖歌隊に加えて頂いてから、讃美歌に対する意識は随分変わったように思います。 音楽を、メロディ・歌詞という構成要素で出来ていると言ってよければ、 私の場合、音楽を聴くときに心に響いてくる一番の構成要素は、メロディです。 歌詞が記憶に残ることもありますが、メロディが圧倒的に強く心に残ります。 こうなると、歌詞の意味を考えながら讃美歌を歌うことが、うまく行きません。 初めて歌う時などは、ジェットコースターのように上下する音符の行方を追いかけながら、 急停止、急発進する音符長短に気を取られてしまい、 歌い終わってもどのような内容の讃美歌だったのか、 思い出せないことになってしまいます。
聖歌隊では、三上先生の指導で、讃美歌の歌詞を皆で読み合わせにします。 皆で声を出して歌詞を読んでゆくと、讃美歌の歌詞が言葉となって心に入ってきます。 この言葉が、作者の心を伝えてくれます。 メロディと言葉が一緒になることで、 神を讃美する歌(讃美歌)になるように思います。
子ども礼拝でも、「お話」の最初に、聖書の箇所を皆で声を出して輪読します。 まだ意味は判らない場合が多いのですが、 聖書の漢字には「ふり仮名」があるので読んで行けます。 やっと平仮名が読めるようになった小さな子も、 ゆっくりだったり、間違ったりしながら、聖書の言葉を読んで行きます。 聖書の「言葉」は、思いがけないときに心に留まるものだから、 直接聖書の言葉に触れることが大切ではないかと考えての事です。 子どもたちも聖書の言葉を必死で読みながら、 礼拝を「受けている」のでは無く「参加している」事を感じられると良いのですが。 お話が始まるとお喋りを始める子も、輪読のときは自分の番が来るから、 一生懸命に聖書の節を追いかけています。
聖書を一人で静かに読むときや、何人かで輪読するとき、 読んでいるその言葉が語りかけてくるように感じることがあります。 アダム・エバの言葉、カインの言葉、ノアの言葉、 「バベルの塔」崩壊は言葉によるコミュニケーション崩壊の象徴、 アブラハム・イサク・ヤコブに神は言葉を語りかけて、神と人の契約を結びます。 古代文化の中では「言葉」の大切さが認識されていたようです。 ですから旧約聖書の中で、「神の言葉」というときそれは単に言語ではなくて、 「事」を引き起こす「神の行為」と、考えられていたようです。
「人はパンだけで生きるのではなく、 人は主の口から出るすべての言葉によって生きることを あなたに知らせるためであった」は、「神の口から出た言葉は言語ではなくて神の行為」と考えると、 「人はパンも必要だが精神性も必要だ」などという理解ではなくて、 「人はパンで生きるのではない。人は主の口から出る全ての言葉によって生きる」 と訳す方が正しいという学者がいることに肯けます。 古代ギリシャ人も「言葉」には力があり、 「言葉」とは「理性」であると考えていたようです。 ヨハネ福音書では、キリストを神の言葉として、 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と書き出します。
(申命記8:3b)現代社会でも、言葉は文明や文化の基礎を成すものですし、 どんなにメディアが進んだとしても、人は言葉で他者との関係を築いて行くのでしょう。 言葉によって、自分の意見を語り、他者の思いを受け入れます。 人間にとって言葉は貴重な財産のようなものです。 ですが、この財産であるべき言葉を、 私たちは注意して使っているのかと問われることがあります。 街に出ると言葉は洪水のように溢れだしています。 人の心を考えない、無味乾燥な言葉。自分の利益を求めるためだけの言葉。 何も生み出さない他者批判の言葉。何気ない話し言葉で、 聞く人が傷つくことは、あり得ることです。 言葉の持つ力は、他者の心に希望の光を灯すことも、 他者を破滅に追いやることもあります。 考えてみると恐ろしい力です。 パウロは「悪い言葉を一切口にしてはなりません。 ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、 必要に応じて語りなさい」(エフェソ5:29)と言います。 余裕を持って、よく整えられた言葉を語りたいと、心からそう思います。
(2010年02月14日 週報より)